天下分け目の戦いで知られる「関ヶ原の合戦」。
徳川家康の東軍と戦い、敗戦した西軍の将・石田三成とはどんな生涯を送った人物だったのでしょうか。
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石田三成はどんな人?
- 出身地:近江国坂田郡石田村(現在の滋賀県長浜市石田町)
- 生年月日:1560年
- 死亡年月日:1600年11月6日(享年41歳)
- 愚直なまでに潔く豊臣家に全てを捧げ、六条河原で露と消えた秀吉子飼いの官僚武将
石田三成 年表
西暦(年齢)
1560年(1歳)近江国坂田郡石田村にて誕生
1574年(15歳)羽柴秀吉に仕える
1583年(24歳)賤ヶ岳の戦いで先駆け衆として一番槍の功名をあげる
1584年(25歳)小牧・長久手の戦いに従軍
1586年(27歳)堺町奉行になる
1587年(28歳)博多町奉行になる
1590年(31歳)小田原攻めの時に忍城水攻めを行う。佐和山城主となる
1592年(33歳)朝鮮出兵で朝鮮総奉行になる
1593年(34歳)五奉行の一人に任命される
1596年(37歳)京都奉行になる
1598年(39歳)豊臣秀吉が死去
1600年(41歳)関ヶ原の戦いで敗走。京都・六条河原で処刑される
石田三成の「豊臣秀吉 ワン・アンド・オンリー」な生き方
羽柴秀吉への仕官
1560年に近江坂田郡石田村で次男として誕生した石田三成。
父は石田正継、母は浅井家臣の土田氏の娘です。
1570年の小谷城の戦いで、浅井家は織田信長と徳川家康の連合軍によって滅亡してしまいます。
三成は、その後近江長浜城主としてやってきた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に父や兄と共に仕官しました。
史実である確証はありませんが、寺の小姓だった三成が出した3杯の茶の出し方が、秀吉に気に入られて仕官することになったという「三献茶」のエピソードが有名です。
天下人・秀吉と共に出世する三成
1577年には織田信長の命令による羽柴秀吉の中国攻めにも従軍しました。
1582年に本能寺の変で信長が亡くなり、次なる天下人となっていった秀吉の元で、三成は忠実に職務を遂行していきます。
1583年の賤ヶ岳の戦いでは一番槍の功名を挙げ、1584年には小牧・長久手の戦いにも従軍しています。
秀吉の出世と共に三成も出世し、1585年に秀吉が従一位関白に就任すると、三成も従五位下治部少輔に任ぜられました。
三成は秀吉の側近でした。
1586年頃には、三成が名将として知られた島左近を知行の半分を与えて召し抱えた逸話も残されています。
三成のスーパー実務能力
三成には武功もありますが、武勇よりは得意の算術を活かした戦の後方支援、そして外交や内政に高い能力を発揮しました。
彼が関わった幾つかの事例を列記します。
・秀吉の太閤検地を全国で推進
・堺奉行として堺を整備
・博多奉行として九州平定後の復興、博多町割りに尽力
・1587年九州平定で水軍を活用した大軍の動員、兵糧や武具などの輸送で遠征を支える
・1592年の文禄の役(朝鮮出兵)では現地での総奉行を務めて、明との講和交渉に尽力
・1597年の慶長の役(朝鮮出兵)では国内からの後方支援に活躍
豊臣秀吉の業績として挙げられるものは、結局三成のような実務能力に長けた官僚たちが膨大な仕事量を処理していました。
秀吉の意向を実務に反映する三成は、天下人・秀吉の執行者の代表だったのです。
そのため朝鮮出兵などで無理が重なった武将たちは、秀吉に言えない不満を代わりに三成にぶつけ、双方の関係は悪化していきました。
秀吉の死後
そして1598年、朝鮮出兵の最中に豊臣秀吉が病死。
出征軍は朝鮮との戦争を終結し、帰国となりました。
秀吉の遺言として五大老と五奉行は、豊臣家の家督を継いだ豊臣秀頼を支えることを任されました。
三成も五奉行の筆頭として政権運営を行います。
しかし、豊臣家臣の間で三成たちを中心とする文治派、加藤清正や福島正則たちを中心とする武断派が対立。
さらに五大老の筆頭・徳川家康が、禁じられていた「大名間の私的婚姻」を武断派の武将たちと結んで勢力拡大を画策するなど勝手な行動を始めます。
武将間の調整役をしていた大老の前田利家が1599年に病死すると、豊臣家臣たちの均衡が破られました。
その直後に加藤清正、福島正則、黒田長政などの武断派武将による三成襲撃事件が起きてしまうのです。
結局三成は逃げて命は助かりますが、その後は徳川家康が豊臣政権内部での実権を握っていきます。
そして関ヶ原
1600年、徳川家康は彼に従わない会津の上杉景勝の討伐に出発します。
すると、その間に前田玄以、増田長盛、長束正家の三奉行が毛利輝元を大阪城に招き、家康の弾劾状を諸大名に送るというクーデター的行動を起こしました。
そして三成はついに家康に対する挙兵を決意し、まずは家康の留守を狙って伏見城を攻め落としたのです。
(残念ながら三成がどう関わって関ヶ原の戦いに向けた西軍が結成されたかはよく分かっていません。)
豊臣家のため、秀頼のためを思って立ち上がった三成の西軍ですが、その実、大阪城の淀殿は豊臣秀頼の墨付きや出陣を許さず、傍観するだけでした。
西軍は毛利輝元を総大将に据えましたが、輝元本人は出陣しません。
また西軍には増田長盛や小早川秀秋など100%信用できない武将たちも混在。
秀吉恩顧の武将たちには東軍についた者も多くいました。
結局、三成が頼れる武将は島左近、大谷吉継、宇喜多秀家、小西行長といったところ。
1600年10月21日、午前8時頃に関ヶ原の合戦が始まったと言われます。
布陣の有利さで最初は優勢だった西軍。
しかし、三成の采配通りには各武将が動きません。
頼みにしていた島左近、大谷吉継らは奮闘の末次々と命を落とし、小早川秀秋、脇坂安治など裏切り者が続出。
とうとう石田三成の本陣もついに壊滅して東軍の勝利に終わってしまいます。
再起を目指した三成ですが、落ち延びていた伊吹山山中で捕まってしまいました。
そして小西行長・安国寺恵瓊(あんこくじえけい)とともに京の市中を引き回しののち六条河原で処刑されたのです。
一生を豊臣家に捧げ、関ヶ原で戦った三成の最期は斬首。
しかし彼に悔いはなかったのだそうです。
石田三成の永遠の主君・秀吉
三成の死後、落城した三成の佐和山城に入った東軍の兵は、城内の質素さに驚きました。
19万石の大名の城の割に城内は非常に質素であり、金銀の蓄えもほとんどありませんでした。
あったのは豊臣秀吉から送られた感状(戦功を賞して主君から与えられる文書)のみだったそうです。
豊臣秀吉と豊臣家一筋だった石田三成にとって、金銀よりも秀吉の「感状」のほうがよほど大切だったのかもしれません。
きょうのまとめ
今回は石田三成の生涯を追ってご紹介いたしました。
石田三成とは、
① 豊臣秀吉に見出され、秀吉が天下人になると共に彼を支え、出世していった子飼いの武将
② 秀吉の指示を側近の立場から執行していたため、他の武将たちに恨まれ、対立した優秀官僚
③ 関ヶ原での敗将として処刑されるまで豊臣家への忠義の心がぶれなかった男
石田三成が、性格的に問題があったという話しもありますが、豊臣家における三成の中間管理職的なポジションが彼を憎まれ役とさせた点は大きいでしょう。
西軍の総大将・毛利輝元は助命され、三成は処刑されたのには不公平な印象も受けます。
言い訳しないまま悪名も罪も背負って死んだ三成ですが、彼に対する史観も変わりつつあり、愚直なほど忠義に生きたその生涯に共感する人々も増えてきているようです。
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