源義朝の最期の戦い「平治の乱」を理解する

 

保元の乱で源義朝や平清盛ら武士が台頭し、武力を持つことの凄さを自覚することになりました。

3年後の平治の乱では、さらに武士が中心となって事件が進みます。

そしてこれが源義朝最後の戦となりました。

 

平治の乱とは

1159年に起きた戦乱です。

この乱も保元の乱のように少し対立構造が複雑です。

源義朝もその構造の中に取り込まれています。

この乱を理解するには、3つある派閥について知ることが大切です。

関連記事 >>>> 「保元の乱に勝った源義朝の憂鬱」

平治の乱を構成する3つの派閥とは

保元の乱で勝利した側、後白河天皇の背後で乱を仕切っていた藤原信西は、乱後にさらに力を持ちました。

それに反発する者が出てきたことが平治の乱のきっかけです。

【信西派】
政治の実権を握りたい

後白河天皇の側近として強大な力を持った信西は、利権を増やし、縁者を高位に取り立てた。ナンバーワン武士団の平氏との政略結婚も進め、武力も取り込もうとしていた。

【二条天皇派】
自由に天皇親政(天皇による政治)がしたい

鳥羽上皇の后・藤原得子(美福門院)は、上皇の死後も莫大な遺産と権力を持ち、政界に影響力があった。
鳥羽上皇を通じて信西とも繋がりのあった得子は、信西の助力で自分の養子であり且つ後白河天皇の息子である皇子を二条天皇に即位させた。二条天皇派は院政の影響を受けない天皇中心の政治を目指した。

【藤原信頼派+後白河上皇】
院政がしたい

後白河上皇は天皇の座を二条天皇に譲らされたことから、信西や二条派に不満をもった。院政を行って治天の君(政務の実権を持つ者)を目指し、新たに藤原信頼を側近とした。また、関東において関わりがあった源義朝とその武力がこの派閥に加わった。

つまりここに3つの派閥ができていました。

しかし、ここに平清盛の名前が見えません。

源義朝と平清盛

平治の乱は源義朝平清盛との対立であり、その原因は源義朝が保元の乱のときの報償が平清盛と比べて劣ったものだったことに不満を持ったとも言われます。

しかし、清盛はもともと白河・鳥羽法皇時代から良い待遇だった武将でしたので、その恩賞に義朝との差が出るのは当然でした。

ただ、保元の乱の後、義朝信西に個人的に怨みを持ったまま信頼派に加わったのは当然とも言えます。

義朝が命乞いをしたにも関わらず、信西の決断で自分の家族の処刑を自らの手で行わされたこと、信西が義朝側との縁談は断わりながら清盛との間には政略結婚を進めたことなどがその理由です。

一方、当時一番の武力を誇っていた平清盛は、どの派閥にも属さず中立の立場を取っています。

このあたりが清盛の上手いやり方でした。

 

平治の乱開始

状況により、3つの派閥の利害関係が変わると敵対する派閥が変わりました。

平治の乱 ー前半戦ー

後白河上皇の側近である藤原信頼の派閥は院政を推進しようとします。

当然天皇親政を目指す二条天皇の二条派や、政治権力を持っていた信西派の2勢力に反対です。

二条派も、信頼派に反発すると同時に反信西派でもありました。

そこで、急成長した信西こそ第一の脅威と考えた信頼派と二条派は、「反信西」の考えの元に共同戦線を結ぶことになりました。

つまり

二条派+信頼派 vs 信西派

の構図です。

1159年、平清盛が熊野詣で京を留守にしている時を狙って、信頼派の源義朝をはじめとする軍が三条殿の信西の寝込みを襲撃します。

二条派の協力の元、後白河上皇は信頼らに身柄を確保されていました。

信西は一時逃亡しますが、発見される寸前に自害しました。

源義朝の襲撃は成功したのです。

新たな対立

二条天皇と後白河上皇を確保した信頼は、朝廷での力をさらに強めます。

戦功のあった源義朝やその息子の頼朝を高位に取り立て、やりたい放題。

今度は、二条派はそれが気に入りません。

信西という共通の敵が消え、協力する理由がなくなった二条派と信頼派の対立が鮮明になりました。

二条派 vs 信頼派

源義朝の息子・義平は、熊野から戻る清盛を早く討とうと主張しましたが、信頼は嫡男と清盛の娘とは政略結婚しているため、当然清盛は信頼派に加わると思っていました。

しかし、水面下の交渉の結果、二条派は中立だった平清盛を仲間に引き入れることに成功。

二条派は油断していた信頼の知らぬ間に二条天皇を清盛の六波羅邸へ移動させ、官僚たちもそれに続きました。

信頼派だった後白河上皇にも逃亡を促すと、上皇も密かに仁和寺へと避難したのです。

平治の乱 ー後半戦ー

気が付けば、ほとんど誰も残らない朝廷に残された藤原信頼。

信頼派は激しく動揺しました。

二条派+平清盛軍 vs 信頼派+源義朝軍

これがその時の対立関係です。

二条派が清盛を加え、天皇と上皇を脱出させ、確保したことの意味を源義朝はよく分かっていました。

「日本第一の不覚人!」

義朝は油断していた信頼をそう罵倒したそうです。

義朝は信西を襲うクーデターのためにしか軍勢を用意しておらず、合戦を想定した大軍を持っていなかったことを悔やんだことでしょう。

今や平清盛の大軍は、二条天皇や摂関家を味方につけた二条派の「官軍」。

圧倒的な強さで藤原信頼派の源義朝軍を破ります。

義朝は再起をかけてなんとか逃亡しますが、味方の裏切りによって殺されてしまいました。

また、藤原信頼も捕まり、斬首されています。

 

平治の乱の結果

平清盛軍の勝利によって、強い武士の重要性が証明されました。

平家一門はその後次々と政界の重要ポストに就き、平清盛を中心とした全盛期を迎えるのです。

源義朝亡き源氏は、ダメージも大きく、当分の間政界に浮上することはありませんでした。

後白河上皇もしばらく政治の蚊帳の外へと置かれてしまいます。

 

きょうのまとめ

今回は、源義朝の最後の戦となってしまった平治の乱について、その対立関係を中心に見てきました。

簡単にまとめると平治の乱は、

① 前半戦は信西派vs反信西派(藤原信頼派+二条派)の戦い

② 後半戦は信頼派+源義朝軍vs二条派+平清盛軍の戦い

③ 二条派と平氏の勝利となり、平氏の中央政界での躍進の原因となった戦い

④ 源義朝軍は崩壊し、義朝も亡くなって源氏が弱体化した戦い

です。

しばらくの間義朝の子孫、河内源氏らは沈黙を続けることになりますが、全滅したわけではありません。

私たちは、義朝の息子である源頼朝が生きていることを知っています。

彼が歴史の表舞台に立ち、鎌倉幕府を開くのはもうしばらく後のことですが。

 

源義朝の年表を含む【完全版まとめ】記事はこちらをどうぞ。
関連記事 >>>> 「源義朝とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】」

 










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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku