無念の死を迎えた源義朝。その墓に供えられたものは?

 

平治の乱によって負けた源義朝の死は、

信頼した者からの裏切りが原因でした。

その無念に少しでも報いようと、彼の墓にはある物が供えられていることを知っていますか。

 

義朝の最期

まず、源義朝の最期はどのような経緯によるものだったのでしょうか。

関東へ向かい勢力挽回を目指した義朝の運命

源義朝は1160年の平治の乱で藤原信頼と共に後白河上皇、藤原通憲(みちのり)、平清盛に対して兵を挙げましたが負けてしまいました。

しかし、義朝はその戦の中で命を落としたわけではありません

義朝軍が壊滅してしまった後、義朝は自分に近しい者たち(義平・朝長・頼朝ら息子たち、一族の者、そして家臣であり乳兄弟の者たちなど)を連れて、勢力挽回のために東国へ向かいます。

が、その途中で追っ手にやられた数名は命を落とし、頼朝も捕らえられてしまいました。

義朝は仲間や子を失い、馬も無い状態となってしまいます。

そこで、義朝と同道しており、彼の乳兄弟として最も信頼されていた鎌田政清のつてを頼ります。

政清の舅であり、家人でもあった長田忠致(おさだただむね)に世話になったのです。

裏切りと義朝の死

兄弟同然にして苦楽をともにしてきた鎌田政清の親戚ならば安心だと、尾張国の野間でつかの間の休息を取っていた義朝。

油断もあったのかもしれません。

軍記物語『平治物語』によると、長田忠致とその息子・景致(かげむね)は恩賞を目当てにして義朝を裏切ります。

義朝は入浴中に襲撃を受け、殺害されてしまいました。

同時に鎌田政清も酒を飲まされ、殺されています。

伝承によると、湯殿で襲撃にあった義朝は、

我れに木太刀の一本なりともあれば

と叫んで、丸腰であった自分の無念を訴えたといいます。

実は、この義朝の最期については別バージョンもあります。

鎌倉時代初期の史書『愚管抄』によれば、長田父子が義朝に対する陰謀を巡らせていた時に、察知した義朝が鎌田政清に命じて自分の首を打たせ、さらに政清も自害したとなっています。

いずれにせよ、長田忠致、景致父子による裏切りが義朝の死の原因だったようです。

彼ら父子は、のちに源頼朝の命によって処刑されました。

 

義朝の墓

義朝の終焉の地は尾張国野間(現在の愛知県知多郡美浜町野間)でした。

この周辺には墓と共に関連の史跡が残されており、関東にも頼朝が父親である義朝のために建立したという寺もあったということです。

源義朝の墓・野間大坊

源義朝がこの地で謀殺されたことから、のちに源頼朝が野間大坊とも呼ばれる大御堂寺に寄進をし、七堂伽藍を造営しました。

ここに源義朝の墓があります。

「自分に一本の木太刀でもあれば」と無念のまま丸腰で討たれたという伝承に基づき、義朝の墓には、おびただしいほどの木太刀が奉納されています。

その他、義朝の首を洗ったと言われる「血の池」も境内に残されています。

この池には、今でも国家に一大事があると池の水が赤くなるという言い伝えがあるとか。

近くには、義朝を裏切った長田忠致の屋敷、そして忠致・景致父子が頼朝によって磔(はりつけ)になった跡地もあります。

<鶴林山大御堂寺(かくりんざんおおみどうじ)野間大坊>
【愛知県知多郡美浜町野間東畠50】

勝長寿院(しょうちょうじゅいん)跡

鎌倉時代初期に源頼朝が父・義朝のために建立した寺院です。

相模国鎌倉大御堂ヶ谷をその建立地として決めました。

頼朝は、義朝とその腹心であり、同時期に亡くなった鎌田政清の首を探し出し、南御堂(みなみのみどう)の地に埋葬しました。

当時は、鶴岡八幡宮、永福寺と共に鎌倉の三大寺社の一つで、何度か火災が起きるたびに再建されてきました。

しかし、戦乱期の混乱もあって荒廃してしまい、今では寺は残っていません

現地には、僅かに勝長寿院址の碑と共に明治になって作られた義朝と鎌田政清の墓があります。

<勝長寿院跡>
【神奈川県鎌倉市雪ノ下4丁目6−20】

 

きょうのまとめ

平治の乱で負けた悔しさはもちろんあったでしょうが、最後の最後に味方だと思っていた者に殺された源義朝はさぞかし無念だったことでしょう。

今回の話しの簡単なまとめです。

① 源義朝は、最も信頼置ける家臣の縁者によって恩賞目的で入浴中に殺害された

② 愛知県の野間大坊に義朝の墓が残っている

③ 一本の木太刀さえも持たないまま殺害された義朝の無念をねぎらうために墓には多くの木刀が奉納されている

奉納された沢山の木刀を見て、源義朝の無念も少しは晴れたでしょうか・・・?

 

源義朝の年表を含む【完全版まとめ】記事はこちらをどうぞ。
関連記事 >>>> 「源義朝とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】」

 










合わせて読みたい記事



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

3 × 2 =

ABOUTこの記事をかいた人

歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku 明石 白(akashihaku)Facebook https://www.facebook.com/akashihaku