石田三成が友と呼んだ人、慕われた人

 

石田三成はどうも性格が悪かった、人望がなかったなどと言われ、それが関ヶ原の合戦での敗因の一つだったとも考えられています。

でも彼にも友と呼べる人は存在し、彼を慕う人も多く存在しました。

 

石田三成の友

武将と武将との間の友情は、戦いに明け暮れる時代においては政治的な位置関係に影響し、自分の命が左右されることもある微妙な問題でした。

大谷吉継 三成に忠告できる男

石田三成の友として最もよく知られるのが大谷吉継です。

ハンセン病で顔のただれた大谷吉継が茶の湯の席で膿を茶の中に落としてしまった時、三成があえて吉継から茶碗を奪うようにして茶を飲み干し、その彼の態度に感激した吉継が三成と友人関係となった逸話が有名です。

その友情が本物だった証しに、吉継は三成に対し、他の者が言えない苦言を呈することさえありました。

例えば、三成が自分の家禄の半分ほどの高禄で島左近を召し抱えた時、人々は三成の心意気に感服しました。

しかし大谷吉継だけは

「高禄を与えさえすればよいと思ったら大間違いだ。むしろ少ない方が主人の心が通じ、一命を投げだす気持ちになる」

と、チクリと言ったそうです。

また、三成が吉継に家康に対する挙兵の決意を告白したとき、大谷吉継は彼を

「三成には人望がないが、家康にはある。三成には智はあっても勇が足りない。智勇二つを併せ持ってことは成し遂げられない」

と諫め、戦う前から負けを予感していながら同意したと言われています。

友を鋭くたしなめながらも、それでも親友だからこそ共に戦うことを約束したのです。

肥後宇土城主・小西行長と肥前唐津藩初代藩主・寺沢広高

小西行長は、肥後での領地が隣接していた武断派・加藤清正と常に境界をめぐって争っていました。

さらに熱心なキリシタンだった行長は、日蓮宗信者の清正とはその点でも対立したのです。

そんなわけで豊臣秀吉の死後、家臣団が武断派と文治派で対立したとき、三成と同じ文治派だったのが小西行長です。

行長と三成とは朝鮮出兵の際に、共に和平交渉を担当した時からの交流でした。

関ヶ原で一緒に戦った二人は、敗戦後に処刑されています。

寺沢広高は、頭脳派武将という点では三成に似ており、彼も石田三成や小西行長と共に文治派の官僚武将で、考え方が合ったようです。

ただし、寺沢広高は徳川家康との接点があり、関ヶ原の戦いでは東軍についています。

彼ら二人と親しかったことは、三成自身が書状に記していました。

書状からわかる親しさ 真田信之と斎村政広

書状といえば、その頻繁さや内容で仲の良さが分かるものです。

真田信之はあの真田幸村こと真田信繁の兄。

幸村は西軍でしたが、信之は徳川家康の与力大名で、関ヶ原では東軍につきました。

その彼と意外にも石田三成が親しくしていたことがわかっています。

明治時代に、松代藩の真田家が代々保管していた「真田家文書」の中から、14通もの三成から信之に宛てた書状が見つかりました。

表向きは徳川家康から下賜された「藤四郎吉光」の短刀が入っていることにして警護をつけ、松代藩の家老でさえ開けることを許されなかった長持ちの中に入っていたのです。

松代藩は関ヶ原の戦いで東軍に与していました。

つまり、敗戦の将である西軍の石田三成の文書を保存したことが判明すれば、松代藩の徳川幕府への忠誠が疑われるほどの危険な行為。

それでも真田信之は、友の書状を代々警護して守らせており、明治となり徳川幕府がなくなって初めて公開されたのです。

手紙はいずれも短く、それがかえって二人の親密さの証しだと言われています。

もう一人の武将・斎村政広は、加藤清正藤堂高虎とは合わず、三成とはその点で気が合ったようです。

三成から政広に宛てた書状が現在徳川美術館に残されていますが、会津に行った時に「雪の中で人も馬も疲れ切っている」と述べており、そんな愚痴をこぼせる間柄だったと言えそうです。

 

三成を慕った武将たち

さらに三成には彼を慕って命を賭けた男たちがいます。

渡辺勘兵衛と島左近

この2人については当サイトの別記事でもご紹介しているので詳細は控えますが、三成はこれらの武将を非常に高く評価していました。

三成は小姓時代にもらっていた俸禄500石全てを与えて渡辺勘兵衛を召し抱えました。

10万石でなければ仕官しない、と豪語していた勘兵衛。

しかし、その三成の思いに負けて、なんと関ヶ原の戦いで亡くなるまで500石で仕えたのです。

軍師・島左近は、三成が4万石を得ていたときにその約半分の1万5千石から2万石で雇われました。

誰の誘いにも乗らなかった左近も、自分の禄の半分を割いてまで見込んでくれた三成の熱意にほだされ、関ヶ原の戦いで討ち死にするまで三成を助けました。

若江八人衆

豊臣秀次は息子のない秀吉の養子となり、関白を譲られて家督を相続。

しかし、その後に豊臣秀頼が誕生したために秀吉から邪魔者扱いされます。

真偽不明のまま秀次は1595年に謀反の疑いで失脚し、切腹となりました。

多くの諸将が秀次を見限る中、彼の助命に奔走したのが三成です。

結局秀次が亡くなったあとは秀次の豊臣家は断絶。

秀次を支えていた優秀な家臣たちの武将集団・若江八人衆の行く末を哀れんだ三成は、彼らを石田家に受け入れたのです。

彼らは大変感激し、8人のうち6人が関ヶ原の戦いで三成の西軍につき、奮戦しています。

本当の仲間には強い絆で結ばれていた三成

関ヶ原の戦いでは、三成を裏切る西軍の武将とその部隊が続出しています。

その修羅場の中にあって、石田三成自身の部隊からは一人の裏切り者も出ず、部隊が壊滅するまで奮闘しました。

それこそが彼と彼を慕う人々との間の固い絆を証明しています。

 

きょうのまとめ

今回は、石田三成を慕う友や仲間、家臣たちについてご紹介しました。

簡単なまとめ

① 人望がないと言われる石田三成にも友と呼べる人々がいた

② 逸話以外にも残された書状などから三成と親しかった武将が判明している

③ 三成を慕った家臣たちとの戦場における絆は固かった

石田三成にまつわる逸話は数多く残されています。

関ヶ原の戦いの敗者ながら、彼の潔さを讃えるエピソード、名言などが多く残るのは、三成を高く評価する人々が確かに存在したからに違いありません。

 

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