関ヶ原の戦いからわずか2週間後。
西軍の実質的な総大将であった石田三成は、京都の六条河原で処刑されます。
ですが三成は、死ぬ直前まで誇りを失いませんでした。
石田三成「最期」にまつわるエピソード
そこで今回は石田三成の「最期」にまつわる、有名なエピソードを紹介していきます。
自害は身分が低い者がすること
関ヶ原の戦いに敗れた石田三成。
逃亡するも、家康の命を受けた追手に捕まってしまいます。
そして本多正純という、家康の家臣にその身柄が預けられることになりました。
本多が「なぜ潔く腹を切らないのか?」と馬鹿にしたところ、
三成は「それは端武者(※)のすることだ」と言い返したといいます。
※はむしゃ/身分の低い武者
家康は上様じゃない
その後、三成は小西行長・安国寺恵瓊(あんこくじえけい)とともに、大坂の堺を引き回されることになります。
そんな3人のもとへ、家康から小袖(※)が届けられました。
いくら負けた者たちとはいえ、破れた衣服のままでは気の毒だと思ったのです。
※袖口の小さい衣服のこと
小西行長と安国寺恵瓊は素直にこれを受け入れますが、三成は送り主は誰なのかと尋ねました。
そして「江戸の上様(=家康)からだ」と聞くと、「上様は秀頼公(※)以外いない」と受け取りを拒否したといいます。
※豊臣秀頼/秀吉の子
死の直前でも命は大切
そして3人は京の市中を引き回され、六条河原へと移されることになります。
その途中、のどが渇いた三成は警護の者に対し、お湯を飲みたいと伝えました。
警護の者が「お湯はないが、干柿はある」と答えると、三成は「柿は痰の毒(※)だから食べない」と断ります。
※柿は東洋医学で、体を冷やすと言われていました。
これを聞いた警護の者は、「これから首をはねられるのに痰の毒を気にしてどうするのだ?」と聞くと、
「大志を抱く者は、最後まで命を大切にするものだ」と答えたというエピソードは、あまりにも有名です。
きょうのまとめ
今回は石田三成の最期にまつわるエピソードについて、簡単に紹介しました。
② 家康から届いた小袖の受け取りを拒否した
③ 殺される直前まで、命を大切にしていた
こちらのサイトでは他にも、石田三成にまつわる記事をわかりやすく書いています。
より理解を深めたい方は、ぜひお読みになってください。
石田三成の年表を含む【完全版まとめ】記事はこちらをどうぞ。
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