ウラジーミル・レーニンとはどんな人物簡単に説明【完全版まとめ】

 

日本から一番近いヨーロッパといわれるロシア。

この国には様々な偉人がいますが、

その中でも今回はウラジーミル・レーニンを紹介します。

ロシア革命によってソビエト連邦を打ち立てた彼の人生は、壮絶なエピソードがいくつもありますよ。

 

ウラジーミル・レーニンはどんな人?

プロフィール
ウラジーミル・レーニン

出典:Wikipedia

  • 出身地:ロシア
  • 本名:ウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフ
  • 生年月日:1870年
  • 死亡年月日:1924年1月21日(享年53歳)
  • ロシア革命に尽力した社会主義の指導者。ロシア帝国に代わり、ソビエト連邦を樹立。

 

ウラジーミル・レーニン 年表

年表

西暦(年齢)

1870年(0歳)シンビルスク(今はウリヤノフスク)で生まれる。

1887年(16歳)
 兄がロシア皇帝暗殺の計画に加わっていたことを背景に絞首刑される。
 同じく計画に参加していたとされる姉もペテルブルグ大学から追放される。
 レーニンはカザン大学に入るも、暴行事件により退学処分を受ける。

1891年(20歳)学外学生としてサンクトペテルブルク大学の試験に合格。

1905年(34歳)第一次ロシア革命が発生。指導者として人々を率いるも鎮圧されてしまい、スイスへ亡命する。

1917年(46歳)
 2月革命が発生。スイスからロシアに戻り、社会主義政権樹立のために本格的に動き始める。
 10月革命(11月革命とも呼ばれる)を成功させ、ロシア帝政を壊滅させる。

1918年(47歳)ブレスト=リトフスク条約をドイツと結び、第一次世界大戦から離脱。

1922年(53歳)
 世界で初めての社会主義国家であるソビエト連邦を樹立。
 脳卒中で倒れる。この年以降体の麻痺や言語障害などの病気に襲われる。

1924年(53歳)発作を引き起こし、死去。

 

エリート中のエリートだったレーニン

物理学者の父親を持つ家庭に生まれたウラジーミル・レーニン。

幼少期から勉強に秀でており、中高等学校を入学から卒業まで常に主席の成績を修めていきました。

また、家庭での教育も階級問題といった社会に関することを数多く教わり、ここでの教育が社会主義への傾倒に少し関係しているのではないかという考えもあります。

 

この優秀さは大学生の頃も変わりません。

カザン大学から退学させられた後に受けたサンクトペテルブルク大学の試験も、全科目満点でした。

この大学自体、現在でもプーチンやメドベージェフなどのエリートを輩出しているエリート大学。

その上で満点の結果をたたき出せてしまうレーニンは、非常に優れた頭脳の持ち主だったといえるでしょう。

 

レーニンとスターリン

レーニンを語る上で外せない人物が、ヨシフ・スターリンです。

スターリンは、レーニンを偉大な人物と思っており、会うだけで緊張してしまうほどのオーラを持つと思っていました。

しかし、実際に会ってみると、そのようなイメージとは違っており、仲間と気さくに話す人物でした。

そのため、初めて会った時はイメージとの違いすぎて失望したという記録が残っています。

 

一方でレーニンは、スターリンを危険視していました。

レーニン自体もテロリズムもある程度容認してしまうほどの冷酷な人物でしたが、それ以上の冷酷さを持っているのがスターリンでした。

実際、スターリンがソビエト連邦のトップになった際に大粛清が行われており、スターリンがいかに恐ろしいのかを当時の世界に知らしめています。

また、レーニンの妻へ暴言を吐いたことがきっかけで、レーニンが激怒したエピソードもあり、関係は良好だったとは言えません。

 

世界各国が潰そうとしたソビエト連邦樹立

レーニンは、1922年に世界初の社会主義国家であるソビエト連邦を樹立しました。

しかし、樹立までには様々な困難が立ち上がり、特に諸外国からの介入が大きな問題でした。

 

諸外国の妨害として有名な出来事がシベリア出兵です。

「ロシア国内のチェコ軍人を救う」という建前のもと、アメリカやイギリス、日本などがシベリアへ侵攻してきます。

最初は攻め込まれましたが、第一次世界大戦勃発により、急速にロシアへ侵攻する敵の兵力が減少。

日本だけは最後まで戦いましたが、それゆえに「領土拡張に対する野心的な考えを持っている」と疑われる結果になりました。

 

ウラジーミル・レーニンを埋葬すべきか否か

レーニンの死後、エンバーミング(遺体の保存処理)が行われ、レーニン廟に展示されることになりました。

観光名所ともなっていますが、現在では彼を埋葬すべきか否かで世論が分かれています。

 

埋葬賛成派の理由としては、以下の通りです

・社会主義から資本主義へと生まれ変わったにもかかわらず、過去の偉人を展示するのはどうなのか

・国の中心に死体が展示されているのは、気味が悪いから

実際に、埋葬賛成派によってレーニン廟は何度もいたずらや破壊行為が行われてきました。

 

一方で、埋葬反対派の意見はどうなのでしょうか

・強いロシアとしての象徴

・埋葬することにより、国内の社会主義者の行動が過激化する恐れがある

過去には埋葬する計画もありましたが、法的根拠がないため頓挫しました。

いずれにしても、レーニンを埋葬すべきか否かという問題は決着するまでには、まだ時間がかかりそうです。

 

きょうのまとめ

今回は、ウラジーミル・レーニンの生涯やちょっとしたエピソードを紹介しました。

簡単にまとめると、4つのポイントに分けられます。

① 学業優秀のエリートだった

②レーニンはスターリンを危険視しており、彼の言動に対して激怒したこともある

③世界各国の介入があったものの、ソビエト連邦を樹立した

④レーニンの遺体は展示されているものの、国内で保存に関する議論が沸き上がっている。

ウラジーミル・レーニン以外にも20世紀にまつわる色々な記事を書いています。

ロシアの歴史や文化に興味がある方は、是非読んでみましょう。

 
目次に戻る ▶▶
 

その他の世界の偉人ははこちらから

関連記事 >>>> 「世界の偉人一覧」

 










合わせて読みたい記事



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

fourteen − thirteen =