石田三成の居城 滋賀県にある佐和山城について

 

滋賀県彦根市古沢町。

この地には、かつて石田三成が治めた佐和山城がありました。

今回は佐和山城の歴史について、解説しましょう。

 

佐和山城の歴史

佐和山城の歴史は古く、鎌倉時代の近江守護職・佐々木荘地頭であった佐々木定綱の子

佐保時綱が佐和山の麓に館を構えたのが始まりとされ、記録にも残されています。

その後は六角氏の支配を受けますが、

戦国時代になると六角氏が衰退、代わりに浅井氏による支配を受けることになります。

佐和山城が安定した拠点城郭となるのも、

ちょうどその頃であり、永禄4年(1561年)に城主となった磯野員昌によるものとされています。

その後、浅井氏は織田信長と同盟関係を結びますが、

元亀元年(1570年)におきた金ケ崎の戦いを契機に同盟関係を破棄、

姉ヶ崎の合戦を経て、浅井氏は滅亡への道を辿ります。

佐和山城も織田信長の攻撃を受け、8ヶ月に渡る戦闘を繰り広げましたが、

元亀2年(1571年)2月に佐和山城城主であった磯野員昌が降伏、

代わりに城主として織田信長の家臣である丹羽長秀が入城しました。

信長は近江の北と南の堺にあるこの城を、近江制圧の拠点として利用しました。

その証拠に安土城の完成までの間、まるで自分の城のように佐和山城を利用していたと

『信長公記』などの記録に残されています。

信長亡き後の豊臣秀吉政権下になると、堀秀政や堀尾吉春が入城し、

城を軍事拠点として守りながら、秀吉に従って各地を転戦しました。
 

 

石田三成と佐和山城

石田三成の入城 

石田三成が佐和山城に入城したのは、文禄4年(1595年)であったと言われています。

前任の堀尾吉晴が佐和山城から浜松へ移ってから5年が経過しており、城内は相当荒廃していました。

そのため、大規模な改修工事を行い、

佐和山の山頂に五層(三層の異説あり)の天守が高くそびえ立つ近世城郭を築きました。

その城の様子は、当時の落首に

三成に過ぎたるものが2つあり。島の左近と佐和山の城

と歌われるほどであったそうです。

ただ「甲子夜話」を見ると、この城の中身は極めて質素だったことが記されています。

石田三成は五奉行としての任を全うするため、

伏見城にいることが多く、佐和山城は父・石田正継に任せていたようです。

佐和山城の戦い

慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦いで、石田三成は徳川家康に敗北。

そのまま徳川家康は小早川秀秋を先鋒に佐和山城を総攻撃しました。

これが佐和山城の戦いです。

城の兵力の大半は、関が原の戦いに出陣しており、守備兵力はわずか2800名しかおりませんでした。

城の留守居を任されていたのは三成の父である石田正継と三成の兄である石田正澄。

彼らは城兵を指揮し、奮戦しましたが、城内にいた長谷川守知などの一部の裏切り、

敵を城内に引き入れたため、9月18日に落城しました。

この時、家康に従軍していた板坂卜斎の残した記録『慶長年卜斎記』を見ますと、

佐和山城内には金銀が少しも残っていなかったとあります。

廃城への経緯

石田一族滅亡の後、佐和山城へ入城したのは、徳川四天王の1人である井伊直政でした。

井伊直政は、中世的な古い縄張りや石田三成の城であったことを嫌い、

徳川家康の許可を得て、彦根城築城の計画を立てます。

しかし、直政は築城には着手できないまま、慶長7年(1602年)に死去しました。

彦根城築城は直政の子である直継が引き継ぎ、築城が開始され、

その後の慶長11年(1606年)に直継が彦根城に移ったことにより、佐和山城は廃城となりました。

 

佐和山城の現在

佐和山城の一部の建造物は、彦根城へ移築されました。

しかし大部分は廃城とともに徹底的に破壊されたため、

現在はかつての姿を彷彿させるような遺構はほとんど見ることができません。

わずかに残る石垣や土塁・空堀にかつての姿を想像すること他ありません。

 










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