石田三成は性格が悪い?感動のいい人エピソードを紹介

 

関ヶ原の戦いでは、小早川秀秋らに裏切られてしまった石田三成

さらに、加藤清正や福島正則らとは仲が悪かったことも有名です。

これらから察するに、石田三成は嫌われ者だったのでしょうか?

 

感動のいい人エピソード3選

石田三成は一体、どんな性格だったのでしょう。

調べてみると、「真面目」「無欲」「横柄」「人望がない」などと出てきます。

これだと、いい人か悪い人かよくわかりませんね。

人間には色々な側面があるので、もしかしたらすべてが本当かもしれません。

そこで今回は、三成のいい面に着目した有名なエピソードを紹介します。

茶会で大谷吉継を思いやる

関ヶ原の戦いでは西軍側で活躍した、大谷吉継という武将がいました。

三成と吉継には、有名なお茶にまつわるエピソードがあります。

秀吉が大坂城で開いた、茶会でのお話です。

 

点(た)てられたお茶をみんなで回し飲みしていたところ、吉継の膿(うみ)が茶碗の中に落ちてしまいました。

吉継は、現在でいうところのハンセン病(※)を患っていたのです。

※らい菌によって引き起こされる感染症のこと。

 

周りの人間たちは、そのお茶を飲むことを嫌がります。

しかし、三成だけは違いました。

吉継から茶碗を取り上げ、お茶を一気に飲み干したのです。

 

三成のこの行動に感激した吉継。

この出来事がきっかけで、関ヶ原の戦いでも三成の側につくことを決めたと言われています。

三成は人の気持ちを思いやることのできる、優しい性格だったと想像できますね。

給料の半分を島左近にあげる

さて、「石田三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」という言葉があります。

ここに出てくる島の左近とは、勇猛かつ戦術にも長けていた島左近という武将。

彼のもとには、多くの大名から「家臣になって」というスカウトが届いていました。

 

ところが島左近は、それらのスカウトをことごとく断ります。

三成も声を掛けましたが、当然断られてしまいました。

なにせ、当時はまだ4万石のお給料しかなかった三成ですから。

しかし三成は、その半分の2万石を与えるという、破格の待遇を約束します。

 

そこまでして自分を必要としてくれる三成に、島左近は感激。

こうして島左近は、三成に召し抱えられることになりました。

三成は惚れ込んだ人物に対して、かなり熱烈なアプローチをする性格だったのですね。

渡辺勘兵衛には出世払いを約束

三成は同様に、渡辺勘兵衛という優秀な武将も召し抱えることに成功しています。

勘兵衛は秀吉から2万石で仕官しないか? という話を持ち掛けられた際には、

10万石でないとだめ! と断ったような人物です。

 

そんな彼のハートを、なぜ三成が射止めることができたのでしょう。

それは三成の当時の給料500石を、すべて勘兵衛にあげると約束したからです。

となると、当面は生活ができないことになるので、勘兵衛の居候になるとまで。

しかし将来、自分の給料が100万石になったら、勘兵衛には10万石を与えると……。

こうして勘兵衛は、三成の家臣となりました。

 

ですが、この話には続きがあります。

三成が佐和山城主になった時、勘兵衛の給料も増やそうとしました。

ところが勘兵衛は、三成が100万石になるまで、自分は500石でいいと申し出たのです。

 

結局、三成が100万石になることはありませんでした。

勘兵衛は関ヶ原の戦いで自害することになりますが、その前に三成に会いに行きました。

すると、10万石の約束を果たせないことを悔やんだ三成に対し、勘兵衛はそれまでの恩義に感謝したのだとか。

三成も勘兵衛も、最後まで律儀な人だったのですね。

 

きょうのまとめ

今回は、石田三成の性格を表すようなエピソードをご紹介しました。

① 病気を患っていた大谷吉継を、茶会の席でただ一人思いやった

② 島左近に熱烈なアプローチをして、家臣として召し抱えた

③ 渡辺勘兵衛に出世払いを約束するも叶わなかったが、感謝された

こちらのサイトでは他にも、石田三成にまつわる記事をわかりやすく書いています。

より理解を深めたい方は、ぜひお読みになってください。

 

石田三成の年表を含む【完全版まとめ】記事はこちらをどうぞ。
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