藤堂高虎、家臣団づくりのレシピ

 

8人の主君に家臣として仕えた戦国武将の

藤堂高虎

彼自身が自分の家臣に対してどのように接したのか、高虎と家臣団との関係をご紹介します。

低い身分から立身出世した藤堂高虎は、父親から譲られた地位も家臣もありません。

苦労人のために人情に厚く、家臣にも寛大だったと言われています。

ほぼ裸一貫から始めた彼の家臣団とはどのように作られたものだったでしょうか。

 

家臣団の特徴は高虎の地位と関係があった

高虎の家臣団メンバーの特徴は、その時代の高虎の地位と強い関係があります。

家臣団メンバーの傾向

1580年代半ばから1590年代半ば頃の高虎の家臣団は、縁故採用者がメインでした。

そもそも、高虎には父譲りの譜代の家臣などはいません。

まだ名も知られていない成り上がり武将の高虎は、親族や遠縁、そして出征先で知り合った縁を頼って家臣を集めました。

1590年代半ばからそれ以降の家臣団は、好待遇で招聘した経験者で構成されました。

朝鮮出兵の際には水軍などの特殊編成が必要で、高虎の知行高が上がったために組織も大規模化。

縁故者だけでは経験不足で、組織が回せなかったのです。

そこで、敵味方、地域、出身を問わない実力重視で、狙った武将を他家より良い待遇で招きました。

関ヶ原戦改易大名の遺臣なども採用しています。

縁故採用から実力のある経験者のヘッドハンティングへと採用傾向が変化したのです。

とにかく実力主義

高虎の採用基準はとにかく「実力主義」

そのため、親族が頼ってくれば採用はしましたが、実力がなければ重用していません。

力のある家臣には高禄で応え、権限も与えています。

例えば、高虎は関ヶ原戦後に12万石を加増されましたが、その約半分を使い実力のある5人の武将を破格の待遇で迎えています。

筆頭は渡辺了(わたなべさとる)の2万石。

高虎の全知行20万石の10%です。

菅達長(かんみちなが)、池田秀氏、友田吉家、桑名弥次兵衛(くわなやじへえ)らの武将がそれに続きます。

彼らはすぐに一軍を率いて活躍した即戦力でした。

石田三成が自分の所領の半分を割いて島左近を招聘したのと似てますね。

 

寄せ集め家臣団の悩みも巧みに解決

もともと高虎は百戦錬磨の実戦派でしたが、領主となってからは逸る気持ちをぐっと抑えて人材の採用と管理に努めたようです。

しかし藤堂家の家臣は、外部からの中途採用者ばかり。

それを統括する大将もまた外部採用者でした。

そのため結束力不足の懸念がありましたが、彼はそれについての改善努力もしています。

血縁や長期の主従関係がなくて結束力不足に対して

人材獲得を続けながら同時に若手を育成。

優れた者を抜擢して藤堂の姓を下賜しました。

そうやって血は繋がっていなくても、擬似的な帰属意識のある同族家臣団を作ったのです。

待遇に不満があるとすぐに辞めそうな武将たちに対して

高禄で厚遇し、精神的な信頼関係を構築しました。

例えば、長宗我部家累代家臣だった桑名弥次兵衛は、高禄をもらった高虎の恩を優先し、かつての同僚たちを相手に戦い抜いたほどの恩義を感じていたようです。

また、ある家臣の戦死に際し、その両親へ向けた書状は、大変心のこもった高虎の言葉が綴られており、家臣への心配りが感じられます。

高虎には、一度自分の元を去った家臣でも見どころがあれば再仕官を認め、以前と同じ待遇で迎える寛容さと人情もありました。

扱いにくい転封先勢力の家臣に対して

新旧家臣の融和を図るために、重臣たちの子女と、転封先在地勢力の子女との巧みな婚姻政策を勧め、帰属意識と結束力を強化しました。

藤堂高虎は実にきめ細かい家臣団管理をしていましたんですね。

 

高虎を敵に回した家臣の末路

高虎は、1614年からの大坂冬の陣と翌年の夏の陣で5000の兵を率いて参戦しましたが、豊臣勢・長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)との八尾の戦いでは苦戦し、戦勝したものの600人の死傷者が出ました。

徳川家康からは戦いぶりを賞賛され、32万石に加増された高虎ですが、高禄を与えていた家臣の渡辺了とは決別しました。

7回にも及ぶ撤退命令を無視し、追撃するなどの独断専行が軍に大きな損害を与え、他の武将からも非難されたのです。

決別後、高虎からの奉公構(ほうこうかまえ/他家が召し抱えないように釘を刺す回状を出すこと)により渡辺了の仕官先はなくなり、生涯浪人で終わっています。

 

きょうのまとめ

今回は、家臣団の形成に心を砕いた藤堂高虎の方法についてご紹介しました。

簡単なまとめ

① 譜代の家臣をもたない藤堂高虎は、家臣団作りに腐心した

② 高虎の家臣団作りの決め手は「実力主義」

③ 高禄だけでなく、精神的な繋がりを重視して寄せ集めの家臣団に結束力を与えた

多くの主君に使えた高虎には、家臣の気持ちがよく理解できたのでしょう。

そのやり方には、豊臣秀吉、石田三成など家臣集めに苦労した人物のリクルート戦略に似た部分があるようです。

 

藤堂高虎の年表を含む【完全版まとめ】記事はこちらをどうぞ。
関連記事 >>>> 「藤堂高虎とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】」

 










合わせて読みたい記事



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

1 × one =

ABOUTこの記事をかいた人

歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku