人間・藤堂高虎の人柄を感じさせる逸話集

 

藤堂高虎は、低い身分から徳川家康のお気に入り大名に上り詰めるまでに、努力と苦労を重ねた人物です。

戦では大活躍、文化人の一面もあり、藤堂家を仕切った高潔で鋭いイメージですが、人情深い面もありました。

残された彼に関する逸話を通して、彼のどこか優しさの伝わる人物像を辿っていきましょう。

 

高虎の主君思いの逸話

高虎と主君の間の関係を見てみましょう。

家康の屋敷

1586年に藤堂高虎は、徳川家康が関白・豊臣秀吉との謁見のために上洛するときの屋敷を建築する作事奉行となりました。

その時彼は、渡された設計図に警備上の問題点を発見したため独断で設計変更し、費用を自己負担しました。

その後、家康に設計図と実物の違う点を指摘されると、

「天下の武将・家康様に万が一のことがあれば、私の主人・(豊臣)秀長の不行き届き、関白秀吉様の面目に関わるので自分の一存で変更しました。ご不満あれば容赦なくお手討ちください」
と返したのです。

その高虎の心遣いに家康は刀を与えて感謝し、以降2人は親密になったといいます。

高虎の高野山出家

1576年、浪人生活のあとに高虎は羽柴秀吉の弟になる羽柴秀長(のちの豊臣秀長)に300石で仕え始めました。

中国攻め、賤が岳の戦い、四国攻め、九州征伐など、大きな戦いに参戦し、出世を繰り返して2万石の俸禄を持つまでになったのです。

しかし、主君の豊臣秀長は1591年に病没します。

秀長の家督を継いだ豊臣秀保の後見役となった高虎は、その後も文禄の役などで活躍しました。

ところが、1595年には秀保が享年17の若さで死没。

子供もなかった秀保の家系・大和豊臣家は断絶したのです。

短い期間に2人もの主君を失い、空しさ、無力感があったのでしょうか、高虎は、秀保の菩提を弔うために出家して高野山に隠棲

のち、彼はその武才を高く評価していた秀吉に召還されて現役復帰しますが、主人を思っての高野山行きは、彼の繊細な一面を表わすようです。

家康の臨終

藤堂高虎は、徳川家康の死去の際に、枕元にいることを許された唯一の外様大名でした。

その時、家康から

「死後も傍らで助けてもらいたいが、宗旨が違うからあなたとあの世では別々になるのが心残りだ」

と言われた高虎。

家康は天台宗、高虎は日蓮宗だったのです。

しかし高虎は、すぐに別室の南光坊天海僧正のもとに赴き、即座に日蓮宗から天台宗へと改宗したのです。

再度、家康の枕頭に戻り、

「これで来世も大御所様にご奉公することがかないまする」

と言って涙を流したそうです。

高虎のスピードのある行動力ですね。

 

高虎の家臣思いの逸話

今度は、高虎と家臣たちとの間についての逸話を見てみましょう。

殉死禁止

ある時、高虎は箱を用意して

「自分が死んだら殉死しようと思っている者は名前を書いて札をこの箱にいれよ」

と家臣に命じました。

すると、彼の家臣たちから合計70名もの殉死希望者が出たそうです。

高虎はそれを家康に告げ、彼らの殉死を止めるよう嘆願し、家康が彼らの殉死を禁じました。

実は、これは高虎の貴重な人材を高虎の嫡子・高次のために残しておこうという合理的な考えもあったようです。

こういったわけで主君が死ぬとその後を慕って殉死するという非合理なことを高虎は厳禁したのでした。

家訓

晩年の高虎の言葉をまとめた『高山公遺訓二百ケ条』と呼ばれる家訓集があります。

そこには、主君と家臣との間の「情」による繋がりを重視していた彼の言葉が見られます。

・「家臣に情をかけ、細々したことは見逃すことが肝要だ。大事になったときは、家臣のせいではなく自分の運命と考えよ」

・「とにかく情けをかけて家臣を召し使えば望ましいことが多い。主のために一言で命を捨ててくれるのは常日頃の情けによる。いくら禄を多く与えても命を捨てて報いてくれる程にはならないであろう」

200に及ぶ彼の言葉は、人情に厚く、人を使う術に優れた高虎の考え、人柄が示されています。

現代の経営者の心構えにも通じる内容です。

それにしても200は多いですね。

 

高虎は妙に公正な人だった、という逸話

ここでは高虎の正直さが呼び込んだハッピーエンドなエピソードを。

同僚・加藤嘉明との確執を越えて

慶長の役で功を競いあった藤堂高虎と加藤嘉明は、仲が良くありませんでした。

2人の領地が今治藩、伊予松山藩で隣接していたこともあります。

ある時、徳川秀忠は、改易された東北の要衝・会津の所領を高虎に任せようとしましたが、老齢を理由に高虎が断ります。

高虎は、代わりに仲が悪いはずの加藤嘉明を推薦したのです。

彼が会津に国替えとなれば、20万石から40万石となり、高虎の30万石より上となります。

なぜ、と問う秀忠に高虎は、

「遺恨は私事です。国家の大事に私事は無用です」

と答えたそうです。

後にこれを聞いた嘉明は高虎に感謝して和解したのだそうです。

無銭飲食

高虎は、流浪生活中に三河吉田宿(現在の愛知県豊橋市)で空腹のあまり三河餅を無銭飲食し、主人に白状して謝りました。

すると店の細君がたまたま同郷の近江の出だったこともあり、主人に故郷で親孝行するようにと路銀まで与えられて許されたのです。

後日、大名になった藤堂高虎は、参勤交代の折に店に立ち寄り、丁重なお礼をしました。

この逸話は、藤堂藩家老の中川蔵人の日記に記されています。

藤堂家の旗印は、「白餅三つ」ですが、これは「白餅」を「城持ち」にかけ、「人の情けを忘れないように」という意味が込められているのだそうです。

 

きょうのまとめ

今回は数多くのこる藤堂高虎の逸話の幾つかをピックアップしてご紹介しました。

簡単にまとめると、藤堂高虎の

① 主君、家臣、その他の人々との「情」を大切にした

② 公正で正直、そして合理的

といった人物像が浮かんできます。

一昔前までは、戦国武将の中でもあまり評判よろしくなかった藤堂高虎。

主人を何人も変えた彼に対する否定的な見方が主流でしたが、情けのある懐の深い人物が本来の姿だったのかもしれません。

 

藤堂高虎の年表を含む【完全版まとめ】記事はこちらをどうぞ。
関連記事 >>>> 「藤堂高虎とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】」

 










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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku