藤堂高虎とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

足軽から大名へと躍進したのは豊臣秀吉に限ったことではありません。

近江出身の藤堂高虎も足軽から大出世した大名の一人。

藤堂高虎とは一体どうやってそんなに出世することができたのでしょうか。

そして彼はどんな人物だったのでしょう? 

合理的で頭脳は明晰、築城の名人であり且つ人心掌握にも長けていたというスゴ腕武将の高虎の生涯を追ってみましょう。

 

藤堂高虎はどんな人?

プロフィール
藤堂高虎

出典:Wikipedia

  • 出身地:近江国犬上郡藤堂村(現在の滋賀県甲良町在士)
  • 生年月日:1556年2月16日
  • 死亡年月日:1630年11月9日(享年75歳)
  • 足軽から徳川家康のお気に入り32万石大名となった、百戦錬磨の武将で築城の名人。合理的精神を持った才能と努力の人

 

藤堂高虎 年表

年表

西暦(年齢)

1556年(1歳)近江国犬上郡藤堂村(現在の滋賀県甲良町)の土豪・父虎高の二男として誕生

1570年(15歳)浅井長政に足軽として仕え。姉川の戦いで初陣(のち阿閉貞征、磯野員昌、織田信澄に仕えたあと浪人生活を送る)

1576年(21歳)羽柴(豊臣)秀長に、300石で召し抱えられる

1587年(32歳)紀伊粉河領主として2万石の大名となる

1591年(36歳)主君・秀長が没し、後継者豊臣秀保の後見人となる

1595年(40歳)秀保死没後、高野山へ隠遁。豊臣秀吉に召喚され還俗し、伊予国板島7万石の領主となる

1598年(43歳)豊臣秀吉死去につき徳川家康に仕える

1600年(45歳)関ヶ原の戦いに参戦

1608年(53歳)初代津藩主となる。伊予と合わせて22万3,950石となる

1615年(60歳)大坂夏の陣に従軍

1617年(62歳)知行32万3,950石となる

1630年(75歳)江戸の藤堂藩邸で死没

 

藤堂高虎の生涯

藤堂高虎の一生とは、主君を変えながら没落土豪から足軽、そして32万3,000石の大名へと出世し、藩政をおこなった繁栄の人生です。

しかし、もちろんそこには努力も苦労もありました。

初陣の前からすごかった高虎

1556年、藤堂高虎は近江国の農民のような没落生活を送る土豪の家に生まれました。

まず高虎は父と兄に従って浅井長政に仕えます。

1569年、まだ13歳で戦に出るのを止められていた高虎が、手製の刀と竹槍を持って父や兄の後を追いかけ、北近江の一揆衆との戦いで一人を討取る大金星を挙げました。

主君の浅井長政から褒美に備前兼光の刀と黄金1枚を与えられたのが彼の戦人生の始まりでした。

正式な高虎の初陣は15歳の時の姉川の戦いです。

そこでも織田勢の首を挙げる武功で、感状を受けています。

しかし、浅井家は1573年に小谷城の戦いで滅亡

高虎はその後、阿閉貞征、磯野員昌、織田信澄と主君を変えて仕えたあと出奔します。

浪人から一転!豊臣秀長の元ではあらゆる戦いの方法をマスター

その後、主を持たずに流浪生活をしていた高虎は、時には、三河吉田宿で無銭飲食したことがあるほど生活に困ったこともありました。

しかし1576年に、21歳のときに羽柴秀吉の弟・羽柴秀長に300石で仕えます。

ここで高虎の武将としての才能を思う存分発揮しました。

織田信長の安土城築城に参加し、築城術も学んでいます。

中国攻め、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、紀州攻め、九州征伐など日本を騒がせた多くの戦いで活躍

一騎打ちや銃撃、調略、城攻め、あらゆる戦い方で華々しい戦功を立てました。

その頃、猿岡山城、和歌山城など初めての築城も行っています。

300石から始まった彼の禄高は、1587年の九州征伐の後では2万石にまでなりました。

1591年に主君の豊臣秀長が亡くなると、後継者・豊臣秀保の後見役を務めました。

1592年からの文禄の役(朝鮮出兵)では、秀保の代わりに水軍として出陣して戦果を挙げています。

出家から豊臣秀吉のもとで現役復帰

ところが、1595年に主君の秀保が17歳という若さで死没。

高虎は、秀保の菩提を弔うために出家して高野山に隠棲してしまいます。

しかし、高虎の武才を惜しんだ豊臣秀吉に説得され、還俗して伊予国板島・7万石の板島丸串城主として返り咲きました。

1597年慶長の役(第二次朝鮮出兵)での活躍後は、8万石大名となっています。

秀吉亡き後は徳川家康に仕え、関ヶ原の戦い後に20万3,000石、大坂冬の陣・夏の陣後には32万石の大名となりました。

江戸城大改修にも活躍し、外様でありながら譜代大名格となるほど家康に信頼された高虎は、1605年の徳川家康臨終の際には枕元にいることを許されたほどでした。

家康の死後、第2代将軍徳川秀忠に仕えています。

誰も知らなかった高虎の身体の傷

1523年頃から眼病で視力が衰えた高虎は、1630年には完全に失明し、同年10月に75歳にてこの世を去りました。

身長六尺二寸(190cm)の大男だった彼の死後に遺体を清めた近習の者は、彼の身体を見て驚いたそうです。

高虎の身体全体には隙間なく弾傷や槍傷があり、手や足の爪ははがれ、両手は節くれ立ってまめだらけの上、数本の手指はちぎれてありませんでした。

無言の身体が彼の歴戦を物語っていたそうです。

 

高虎の墓

上行寺(じょうぎょうじ)

1588年の創建で、藤堂高虎によって建立された藤堂家の伊賀の菩提寺です。

当初は高虎の本拠である紀伊国粉河にあり、高虎が伊予、伊勢・伊賀に移るたびに移転し、1611年に現在地に移されました。

藤堂高虎、彼の父親虎高を含め、歴代当主の墓碑が祀られています。

寺宝として国重要美術品指定の「紙本著色藤堂虎高像」があります。

(住所:伊賀市上野寺町1165)

東叡山寛永寺 寒松院

藤堂高虎のもう一つの墓は、上野公園に隣接する寒松院にあります。

寒松院は高虎の法名を寺名として、1627年に建立されました。

戊辰戦争、太平洋戦争の戦火のために焼失したのち、現在の場所に再建されました。

高虎が眠る藤堂家の墓所は、残念ながら非公開です。

(住所:東京都台東区上野公園15-11)

 

きょうのまとめ

高虎は「七度主君を変えねば武士とはいえぬ」と言ったそうですが、今回は武才を武器に激しい戦国時代を生きた本物の武将、藤堂高虎をご紹介しました。

藤堂高虎とは

① 足軽から実力で大名に出世した立身出世の人

② 長い戦歴の中で武将として、政治家として、技術官僚としての力を培ったキレ者武将

③ 秀吉にその武才を請われ、家康に来世でも会いたいと願われた男

です。

「主君に選ばれる自分」ではなく「自分が主君を選ぶ」つもりで、最適の人物を探し、決めた主君には全身全霊を尽くして仕えた藤堂高虎。

武勇と合理的精神を持った日本の勇将の一人でした。

 

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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku