優れた政治家であり、その能力ゆえに妬まれ、恨まれた人物。
身に覚えのない罪で都から遠く太宰府へと流された
菅原道真。
どんな人物で、どんな思いで生きたのでしょうか。
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菅原道真はどんな人?
- 出身地:不詳
- 生年月日:845年6月25日
- 死亡年月日:903年2月25日(享年59歳)
- 宇多天皇に重用されるも政敵の讒言で太宰府へと左遷の後、非業の死を遂げた学者であり政治家
菅原道真 年表
西暦(年齢)
845年(1歳)誕生
862年(18歳)文章生となる
867年(23歳)文章得業生となる
877年(33歳)文章博士となる
886年(42歳)讃岐守を任じられる
888年(44歳)藤原基経を諫めて阿衝事件を収める
890年(46歳)京に戻る
891年(47歳)蔵人頭となる
894年(50歳)遣唐使の大使に任命されるが、遣唐使中止を提案する
897年(53歳)権大納言兼右近衛大将となる
899年(55歳)右大臣、右大将を兼任
901年(56歳)従二位、大宰府に大宰権帥(だざいごんのそち)として配流される
903年(59歳)薨去(死没)
抜群の才能で異例の出世をするも無実の罪により左遷地で没する
中流貴族の家に生まれながら、学問によって出世し、
国政の中枢で政治改革を推進していった菅原道真。
文武に優れた人物でしたが、政敵である藤原時平の讒言、宇多天皇と醍醐天皇の政争に巻き込まれて、遠い太宰府に左遷され、その地で亡くなりました。
頭脳はキレッキレ
その頭の良さに子供時代は「神童」と呼ばれた道真。
18歳の頃、官僚を養成する学校の「文章生」になり、その後トップ2だけがなれる「文章得業生」となりました。
さらに、学者の最高位である「文章博士」に。
宇多天皇に見込まれて出世し、優秀な政治家として活躍。
藤原氏一辺倒の朝廷の政治改革を推進し、896年に讃岐守となったときは、善政で多くの人々に慕われました。
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宇多天皇、そして醍醐天皇の時代にも重用されていましたが、中級貴族の道真の昇進が面白くない有力貴族や、道真の改革を支持しない保守的な人々の反発もありました。
901年、道真は醍醐天皇を廃し、娘婿の斉世親王を皇位に就けようと謀ったと藤原時平に讒言され、身に覚えがないまま太宰府へ左遷となりました。
道真左遷には、ライバル・藤原時平との確執説、道真の陰謀説などの異論もあります。
左遷から2年後の903年、道真は都へ戻れる日を待ちながら太宰府の地で亡くなりました。
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ジャッジし、ノーと言える男
菅原道真には物事を客観的に捕らえ、
そこから冷静に判断する高い能力がありました。
阿衝の紛議
887年、光孝天皇の次に宇多天皇が即位したときに、関白・藤原基経は引き続き強い職権のある関白職を欲していました。
しかし、宇多天皇が橘広相に指示して基経に任命した「阿衡」と呼ばれる役職は権限を伴わない名誉職。
それに基経が激怒して全ての政務をボイコットしたため、宇多天皇は、仕方なく詔勅を書いた無実の橘広相を罷免します。
しかし、意地を張り続ける基経。
そんな時、讃岐国に赴任していた菅原道真が、天皇でさえ説得できなかった基経を手紙でたしなめ、見事職務に復帰させました。
遣唐使を廃止する
厳密には「廃止」ではなく、まずは「中止」でした。
894年、遣唐使の大使だった道真は計画されていた派遣の「中止」を提案。
その理由は、
2.過去の派遣では、航海中に命を落とす可能性がとても高い。派遣で優秀な人材を失うわけにはいかない。
でした。
一時は文化の最先端を誇った唐ですが、もはや人命を賭してまで行く価値はない、との道真の判断です。
907年に唐が滅亡したことを考えても、道真の判断は間違っていませんでした。
「ノー」と言える胆力と能力、そして未来を見通す力で、唐の真似に努めた時代に終止符を打ち、日本の国風文化を開花させるきっかけとなった道真のこの英断。
彼は、いずれ漢詩に替わり和歌が台頭することも予見しています。
中止となった遣唐使は、大使だった道真が左遷されたことで自然消滅し、のち廃止となりました。
孤独な道真の友
しかし、優秀な道真は、同時に孤高の人でもありました。
ねたみによる孤独
出世した道真に対する学者や貴族などのねたみは凄まじいものでした。
道真の家集『菅家文草』には、道真が文章博士に就任するとき、味方がいなくなり孤独になると父に助言されたこと、就任3日目にして、誹謗中傷されたことが書かれています。
さらに自分を本当に理解できる友人は3人程で、その3人さえも失うのではないかとの心配を書き残してもいます。
道真の友人たち
道真の思っていた友人3人が誰かはわかりませんが、親しいとされた人物を3人ほど挙げてみましょう。
まずは、平安時代前期の美男と色男の代名詞、在原業平。
桓武天皇の曾孫という高貴な生まれながらも、反体制的な自由人でした。
彼とは親交が深く、共に当時遊女らで賑わった京都大山崎を、たびたび訪れています。
紀長谷雄とは旧知の仲。
道真の大宰府での詩をまとめた『菅家後集』は死の直前に彼に贈られました。
宇多天皇御一行遊覧の際に道真が長谷雄を求めて叫んだというエピソードも。
藤原忠平は、道真の政敵となった時平の弟です。
兄とは違い、道真と共に宇多天皇主催の歌会にでたり、左遷時の道真に励ましの手紙を送ったりなど、親交がありました。
最後に残った友
『菅家文草』の「詠樂天北窓三友詩」によれば、太宰府では引き込もった家の、
部屋の窓に時たま現れる雀と燕の親子を友としました。
雛を養育している親鳥たちの様子を見て、家族を離散させてしまった自分が言葉にできないほど口惜しいと述べています。
血の涙を流し、神に祈るのみだと書き綴った道真。
酒も音楽にも縁はなく、「死」という真の友だけが残った・・・。
そんな悲しい言葉にあふれる記録でした。
きょうのまとめ
最後までお読み頂きありがとうございました。菅原道真についていかがでしたでしょうか。
菅原道真とは?簡単にまとめると
① ずば抜けた学才を誇る少年・青年時代を送った人物
② 中級貴族でありながら学問によって天皇に重用され、出世した優れた政治家
③ 他の貴族のねたみや嫉妬の対象となり、無実の罪で太宰府へと左遷された非業の人
④ 一握りの友だけを心の支えにして無念のまま配流先で寂しく亡くなった男
と言えるのではないでしょうか。
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よろしければどうぞ御覧ください。
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