学問の神様、菅原道真は生前も死後も忙しい

 

死後、その祟りをおそれられたという

菅原道真すがわらみちざね

しかし、時とともにその恐ろしい怨霊のイメージよりも、生前の彼の優秀さがクローズアップされるようになりました。

そして今では学問の神さまとして道真を祀る天満宮は、大変な賑わいを見せています。

 

天才?秀才?スーパーエリート菅原道真の足跡

菊池容斎による菅原道真像
出典:Wikipedia

菅原氏は代々続く学問の家系。

845年に生まれた道真も幼い頃から漢学教育を受けていました。

15歳で元服。

18歳で文章生もんじょうしょうと呼ばれる大学生になるための試験に合格します。

彼の祖父や叔父も優秀な人物で、それぞれ20歳、23歳で試験に合格していますが、それより早くに合格している道真がいかに優秀だったかがわかります。

その後も40人いた文章生のうちトップ2の成績優秀者・文章得業生もんじょうとくごうしょうに選ばれるほどの秀才ぶりを発揮。

33歳になると、今で言う漢文学・中国史の大学教授のような地位にあたる文章博士もんじょうはかせになりました。

父親の死後、道真37歳のころには代々菅原家が経営してきた私塾の運営も引き継ぎます。

この私塾は優秀な学者を多く輩出して、学界の一大勢力ともなるほどでした。

 

人気ありすぎの私塾の結果は「菅家廊下」

菅原氏の私邸は「紅梅殿こうばいどの」と呼ばれました。

その南西に一丈四方の書斎があり、そこに私塾に通う弟子たちが集まります。

書斎の名称を取った私塾の名は「山陰亭」。

ここでは菅原氏の当主が大学寮における公的な職務とはまた別に、教えを請う学生たちに紀伝道(文学や作文を学ぶ学問)を講義しました。

合格するのが大変難しいといわれる文章生・文章得業生を多く輩出したことから塾は大評判になります。

塾生は増加し、部屋に入りきれない者が廊下まではみ出るほど。

間仕切りや畳などを利用して廊下も部屋のように整えて多くの弟子を収容しました。

そのことから山陰亭は菅家廊下かんけろうかと呼ばれるようになったのです。

この菅家廊下を通して師弟関係ができ、菅原氏の弟子たちグループと別の学者の弟子たちグループなどによる学閥の対立抗争まで生まれたそうです。

道真の影響力を恐れ、警戒し、嫉妬した派閥の違う学者も少なくなかったのでした。

このような私塾の発展で、大学寮制度は形ばかりで実質の伴わないものになりました。

家学かがくと呼ばれる家や氏族単位での知識や学術継承が盛んとなったのです。

「菅家廊下」は、少なくとも平安時代後期ごろまでは菅原氏代々の文章博士によって継続されていたと考えられます。

 

次々増える「神さま」道真の仕事

道真が「神さま」となったのは、まず天神さまとして信仰されたことから始まります。

彼の死後、たたりとも思える天災や事故の多発への恐れから始まり、天神さまとなった道真。

それは、五穀豊穣の祈願や雨ごい、水害を鎮めるための神へと発展します。

その他、様々の神様となる道真。以下にまとめました。

・学問の神様

頭脳明晰で優秀だった彼はご存知のように学問の神さまになりました。

きっと人々は、道真怒りの恐ろしさを感じると同時にその優秀さに憧れの気持ちもあったのでしょう。

・至誠の神様

優れた政治家としても活躍した菅原道真は、無実の罪で太宰府に流された後、自身の潔白と国家の平安を祈り続けた言われています。

自分が不遇な目にあっても、最後まで朝廷に仕える忠実な一員であろうとした道真は、「至誠の神様」として多くの人々から信仰されることにもなりました。

・免罪の神様

死後に冤罪えんざいが認められ、太政大臣の位まで贈られた道真は、免罪めんざいの神様になってしまいました。

・芸事の神様

一般の勉学だけでなく、漢文学に詳しく和歌も得意だった道真。さらには文学・和歌の神様になり、それから派生して書道・習字や芸事の神様になっていきます。

・連歌の神様

室町時代に、連歌れんがという和歌に似た「五七五」と「七七」の句を次々と詠みつなげていく文芸が流行しました。

すると、和歌の神様から派生して連歌の神様になります。

亡くなった後も学問を中心に守備範囲の広い神さまとして人々に頼られる存在でした。

 

色じゃなく、金じゃなく、学問こそがバックボーン

生前の道真は、ただの勉強一筋のカタブツではありませんでした。

彼だって平安時代の貴族の一人。

妾もいましたし、ちょっと意外なイメージではありますが、遊女遊びもしたと言われています。

花や自然を対象とした歌のほかに、官能的な詩を書いたりすることもあったんです。

あの平安時代を代表する色男・在原業平との親交があったらしい道真。

20歳も年上の彼に粋な遊び方を教えてもらい、上手に学問と遊びの二つの顔を使い分けたのかも知れません。

やっぱりそういった所も頭がいいのかも。

そんな道真は、富で動かされることはなく、その点は冷めていました。

道真
どんな大量の黄金も父祖代々の学識には遠く及ばない

と語った道真。

学問こそ彼自身のバックボーンであることをよく分かっていたようです。

 

おわりに

神さまになってまでも生前のように学問を中心に、スーパーな活躍ぶりの菅原道真。

神さまにすがりたいときは、とりあえず天満宮にお参りして菅原道真にお願いしておけばマルチに対応してくれそうですね。

なんてことを言ってバチが当たったらイヤですけれど。

 

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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku