平将門、崇徳天皇とともに日本三大怨霊として知られる
菅原道真。
怨霊とは自分が受けた仕打ちに対し恨みを持ち、その死後もたたりをもたらす存在のことです。
今回取り上げる菅原道真の怨霊は、天災を起こして無差別に怒りを表現するだけではなく、対象となる人へのピンポイントの報復も忘れません。
無実の罪で道真を九州へ追いやった公家や天皇たちは次々とターゲットにされました。
身に覚えのある関係者たちは、じわじわと怨霊に追い詰められる恐怖を感じのではないでしょうか。
タップでお好きな項目へ:目次
菅原道真の報復リスト
さあ、ここから無実の罪で太宰府に左遷され、その地で病死した菅原道真に祟られた人々の悲惨な末路を見ていきましょう。
道真の怨霊は予告していた
秀才で名の知れた道真は、怨霊になってもやることにはスジを通す妙な真面目さがあったのかもしれません。
道真が死んでから数年後のある夏の夜のことです。
比叡山の天台座主・尊意のもとに道真の霊が現れました。
道真本人だという霊は、
と尊意に頼むのです。
しかし、天皇から何度も要請されれば断るわけにはいかない、と言った尊意に怨霊は激怒したといいます(「北野天神縁起」による)。
そして復讐は実行されました。
道真の怨霊に報復された人々
906年 藤原定国が死去。享年41。
左遷のきっかけを作り、道真の後任として右近衛大将となった人物でした。
908年 藤原菅根が雷に打たれて死亡。享年64。
道真の左遷を阻止しようと醍醐天皇に直訴するため裸足で参内しようとした宇多上皇を内裏の門前で阻んだ人物。
909年 藤原時平が39歳にて死亡。
道長左遷のきっかけを作った張本人と言われている左大臣でした。
913年 源光が狩りの最中に、乗っていた馬ごと底なしの泥沼にはまって行方不明。おそらく溺死。享年69。
彼も藤原時平と結託して失脚させた張本人の一人であり、道真の後任として右大臣となっていました。
923年 醍醐天皇の皇子(藤原時平の甥でもある)・保明親王急死。享年21。
925年 保明親王の息子(醍醐天皇と藤原時平の孫)慶頼王死去。享年5歳。
保明親王・慶頼王ともに道真左遷のきっかけを作った首謀者・藤原時平と繋がりが深かったことから、両者の薨去は菅原道真の祟りによるものだと噂されました。
そこで恐れをなした醍醐天皇は、すでに亡くなっている道真を右大臣に戻し、正二位を追贈して左遷を解きました。
930年 6月に清涼殿に落雷。藤原清貫を含む政府要人数名死亡、怪我人多数。
落雷の直撃を受けた清貫は、時平の命令で太宰府に左遷された道真を監視した人物です。
衣服は焼けただれ、胸を裂かれた状態で即死でした。享年64。
その惨状を見てショックに打たれたのでしょうか。
醍醐天皇は体調を崩し、3ヶ月後に寛明親王に譲位し、7日後崩御。享年45。
この天皇が藤原時平の言葉に乗せられ、道真の左遷を決定した人物です。
その上、台風・洪水・疫病と災厄は当分の間、収まりませんでした。
菅原道真の左遷を企てた者、それに加担した者は天皇であろうとも祟りから免れることはできなかったと噂されます。
その証拠に、藤原家では唯一、道真に同情的だった藤原時平の弟である藤原忠平だけは、事故にあうことはありませんでした。
兄である時平とむしろ仲が悪かった忠平は、兄を含むライバル達が全滅したことを契機に、摂政・関白となって藤原北家を支えていきました。
怨霊は生前の性格とは無関係、というセオリー
菅原道真は生前、性格的にそれほど執念深い人物ではありませんでした。
道真自身が実際に呪いの言葉を残した事実もありません。
しかし、これだけ関係者が死亡してしまうと、
因果関係がやはりあるのではないかと思ってしまいますね。
そこで当時の人々には、理不尽な処置で人を死に追いやれば、死んだ本人の意志とは関わらず、その怨霊はその罪を犯した人すべてに報復を加えるのだという認識が定着したのだそうです。
おわりに
道真の怨霊は、無差別的な天災を起しながらも、ここぞという人物にはピンポイントで復讐を遂げています。
かなり上級テクニックですね。
そこまで派手な祟りを起こし、人々に天神さまと恐れられながらも、後は学問の神さまとして、学生たちに頼られている道真。
こんなすごい神さまならば、さぞ学問のほうも霊験あらたか・・・?
その他の人物はこちら
平安時代に活躍した歴史上の人物
関連記事 >>>> 「【平安時代】に活躍したその他の歴史上の人物はこちらをどうぞ。」
時代別 歴史上の人物
関連記事 >>>> 「【時代別】歴史上の人物はこちらをどうぞ。」