毛沢東とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

清王朝の崩壊後、国共内戦の末に国民党を打倒し、

中華人民共和国を建国した人物、

毛沢東

初代国家主席として現在の中国で尊敬される一方で、

粛清や政策の失敗により多くの命を奪った独裁者としての評価も際立ちます。

一体、毛沢東とはどんな人物だったのでしょうか。

今回はその生涯に迫ります。

 

毛沢東はどんな人?

プロフィール
毛沢東

出典:Wikipedia

  • 出身地:中国 湖南省
  • 生年月日:1893年12月26日
  • 死亡年月日:1976年 9月9日(享年82歳)
  • 政治家、軍事戦略家、中華人民共和国初代国家主席

 

毛沢東 年表

年表

西暦(年齢)

1893年(0歳)中国湖南省で5人兄弟の3男として生まれるが、兄たちが夭逝ようせいし事実上の長男となる。

1907年(14歳)最初の結婚をするも、3年後に妻は20歳で病死する。

1910年(17歳)故郷を離れ、湘郷県立東山高等小学校に入学。

1911年(18歳)辛亥革命が起こり、湖南駐屯の軍に入隊する。半年後、学校に戻る。

1912年(19歳)長沙の湖南全省公立高等中学校に入学。

1913年(20歳)湖南省立第四師範学校に入学。翌年、湖南省立第一師範学校に編入する。

1918年(25歳)学友たちと新民学会を創立。学校を卒業後、北京へ上京し北京大学の図書館で務める傍ら、聴講生として学ぶ。

1919年(26歳)帰郷し、長沙の初等中学校の歴史教師となる。翌年、長沙師範学校附属小学校長となる。

1921年(28歳)第一回中国共産党全国代表大会に出席。2年後の第三回党大会では中央執行委員に選ばれる。

1924年(31歳)第一回中国国民党全国代表大会に出席し、国民党中央執行委員会の候補委員に選ばれる。

1927年(34歳)国共合作崩壊後、第五回党大会で中央委員会候補委員に選ばれる。9月武装蜂起するも失敗し、井崗山に立てこもる。

1928年(35歳)第六回党大会で中央委員に選ばれる。翌年から2年間、「土地革命」を実施。

1931年(38歳)「中華ソビエト共和国臨時中央政府」の樹立を宣言し主席となる。翌年、軍の指揮権を失う。

1934年(41歳)「長征」を開始。その後、周恩来に代わって最高指導者となる。

1936年(43歳)「西安事件」の後、第二次国共合作を構築。翌年の日中戦争では主に国民党軍と日本が戦うよう仕向けた。

1940年(47歳)「新民主主義論」を発表。2年後には反対勢力の粛清を開始。党内の最終決定権を得る。

1945年(52歳)第七回党大会にて「毛沢東思想」が党規約に加えられ、後に中央委員会主席に就任。

1946年(53歳)国共内戦の開始。「土地革命」を再開し、農民から支持を得る。

1949年(56歳)北京で「中華人民共和国」の建国を宣言。国共内戦は翌年まで続いた。

1950年(57歳)スターリンの元を訪れ「中ソ友好同盟相互援助条約」を締結。その後の朝鮮戦争では北朝鮮を支持。

1951年(58歳)「三反運動」、翌年には「五反運動」を展開。その後、突如社会主義への移行を表明。「第一次五ヵ年計画」を開始。それ以降、現実離れした政策と粛清を伴う独裁政治を展開していく。

1958年(65歳)「大躍進政策」を開始。数千万にも及ぶ餓死者を出す。翌年、責任をとって国家主席の地位から退くも実権は握ったまま。

1962年(69歳)「大躍進政策」に対する自己批判をせざるを得なくなり実権も失うが、後の「文化大革命」により再び台頭する。

1972年(79歳)アメリカ大統領と日本首相、それぞれとの会談。国交の樹立を図る。

1976年(82歳)北京、中南海の自宅で死去。

 

毛沢東 社会主義国家の初代リーダー

中国の建国

19世紀の末に中国の湖南省で生まれた毛沢東。

10代後半で辛亥革命に参加し、

20代後半で第一回共産党大会の創立メンバーとして出席します。

その後は蒋介石を中心とする国民党との政権を巡る争い、国共内戦でその頭角を現し、

日中戦争においても彼の軍事戦略が共産党の立場を有利にしました。

さらに党内での権力争いにも打ち勝つと、毛沢東は党内での指導者としての実権を握ります。

そして日中戦争終結後に再び国共内戦が勃発すると、

蒋介石率いる国民党軍を中国本土から台湾に追い出し、

1949年、中華人民共和国の建国を宣言しました。

毛沢東が初代国家主席となったこの政治体制は、現在の中国社会に続いています。

建国後に現れた本性

中華人民共和国の建国当初、社会主義の体制を採りながらも

民主主義的な考えも尊重しながら政策を進め、

国共内戦当時からの支持者である農民や労働者たちから

多くの支持を得ていた毛沢東。

しかし1952年に突然、完全なる社会主義的な政策に乗り出します。

突然の移行に多くの国民を含め党内幹部たちまでもが戸惑いを隠せず、

反発を抱くようになります。

しかし毛沢東は異論を認めず、反対派は容赦なく粛清の対象となりました。

なかでも、イギリス社会を追い越そうとソ連の五ヵ年計画を元に行われた大躍進政策では、

現実を顧みない無茶な計画と粛清の恐怖に人々は苦しめられ、

数千万にも及ぶ餓死者を出しました。

さすがの毛沢東もこの責任からは逃れられず、歴史的な大失敗を前に一度は権力の座を降ります。

しかしその後、側近や一部の若者を先導した文化大革命と呼ばれるクーデターを起こし、

再び権力を握り、個人崇拝を高めて中国全土に君臨することになりました。

神格化された晩年には、米大統領や日本の首相との会談も果たし、

社会主義という東側の体制を採りながら、西側の国との関係修復にも努めました。

 

毛沢東 こぼれ話

ここでは毛沢東のあまり知られていないエピソードをご紹介していきます。

核実験の強行


大躍進政策の失敗により国内が混乱の状況にあるなか、

米国やソ連などの大国に対抗するために、毛沢東は国内で核実験を強行しました。

その結果、古よりシルクロードの交易路として知られている地域に現在もその影響が残っています。

贅沢は好むが身なりに無頓着

最高指導者になる前と後で明らかに体型の変わった毛沢東。

人々が飢えに苦しむなか、毎日好きなものを好きなだけ食べる贅沢な日々を送っていました。

その一方で服装には無頓着で同じガウンを何年も着続け、

ほつれた箇所は修復させ、つぎはぎだらけになっても気にしなかったようです。

さらに歯磨きを嫌った彼はほとんど歯を磨かず、口臭をまき散らしていたといいます。

『毛主席語録』は神格化の手助けに

毛沢東の側近によって編集を命じられ、

『毛主席語録』として世に広まった毛沢東の言葉たち。

これは文化大革命の際に一般向けに出版が開始され、

若者たちから支持を得るきっかけ作りに大いに役立ちました。

一説では、その後国外にも出版され聖書に次ぐ大ベストセラーになっています。

 

きょうのまとめ

今回は、中華人民共和国の初代国家主席、

毛沢東の生涯についてご紹介しました。

いかがでしたでしょうか。

毛沢東は何を成した人物だったのか簡単にまとめると

① 第一回共産党大会の創立メンバーで、国共内戦や日中戦争で頭角を現すと共産党内での実権を握り、1949年に中華人民共和国を建国した

② 最高指導者となってから、突如急進的な社会主義の政策を断行し、反対派の粛清や大躍進政策の失敗で多くの犠牲者を出した

③ 失脚後、側近や若者を自身の権力闘争に利用したクーデターを起こし、神格化の域に達した個人崇拝と共に再び権力の頂点に立った

当サイトには、他にも毛沢東に関する記事が複数あります。

興味を持たれた方は、お時間のある時にでもぜひのぞいてみて下さい。

 

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