栄光のあとの悲劇。菅原道真の左遷

 

無実の罪で無念ながらも九州へと流され、

その地で死没した菅原道真

道真が藤原時平の讒言によって太宰府に左遷となるまでの経緯、

そして左遷後の生活はどのようなものだったでしょうか。

 

道長を陥れた人物 藤原時平

藤原時平は、史上初めて摂政・関白、そして太政大臣を務めたという藤原基経(もとつね)の長男という恵まれた家系に生まれました。

道真を失脚させた張本人の悪役イメージはありますが、

かなりの秀才で才能も実力もあった人物です。

朝廷で早くから高位についていたのは、

父親の威光だけによるものではありませんでした。

宇多天皇の狙った「天皇親政」

もともと藤原氏が朝廷で絶大なる権力を持っていたのには2つの理由がありました。

1つ目は、天皇と外戚関係を結んでいたため。

そして2つ目の理由は、天皇の摂政または関白となり、

天皇の代わりに政治的権力を手中にしたためです。

891年、やり手の貴公子・時平が21歳の時、

日本史上最初の関白であった父親の基経が亡くなります。

関白とは、成人の天皇を補佐する仕事。

まだ若い時平には関白継承は無理だという判断で、

ポストは空席となりました。

その上、宇多天皇は次期天皇候補である東宮を藤原氏の外戚ではない人物に決めます。

つまり、藤原氏が権力を維持するための上記のポイントを両方とも排除したのです。

宇多天皇の狙い通り、政治の実権は藤原氏から天皇に戻り、

天皇が直接政治をおこなう「親政」が復活。

さらに天皇は、藤原氏への権力集中を避けるため、

藤原氏に縁のない優秀な菅原道真を重用したのです。

これで宇多天皇はぐっと政務がしやすくなりました。

藤原時平の不満

宇多天皇の取り計らいで道真は出世街道を駆け上ります。

この状況が、藤原氏の中でも最も栄える藤原北家の嫡子である時平にとっておもしろいわけありません。

897年、醍醐天皇が即位。

譲位した後も、宇多上皇は政治的権力をキープしつつ、そのまま道真をサポートします。

899年、菅原道真と藤原時平はそれぞれ右大臣と左大臣となりました。

時平は決して政界で軽んじられていたわけではなかったのですが、彼にとってはまだ物足りません。

やがて状況が変わってきます。

宇多上皇のパワーから逃れようとする醍醐天皇は、道真ではなく時平を重用するのです。

宇多上皇は仏教に傾倒し始め、後ろ盾のない道真は不安定な状況になってきます。

そこで時平は、道真排除のためのだめ押しを決行。

道真左遷とその理由

901年、時平が、醍醐天皇に告げ口するのです。

菅原道真は彼の娘婿(宇多天皇の息子であり、天皇になる資格がある人物)を醍醐天皇の代わりに即位させようと謀反を企んだ、とでっち上げました。

それに激怒した醍醐天皇。

身に覚えのない道真。

しかし、まさかの無実の罪で道長は太宰府へと左遷されてしまったのです。

これで、藤原時平は道真の排除に成功し、藤原氏は再び朝廷に大きな影響力を持つことになりました。

現在の多くの歴史家たちの見解では、無実の道真を時平が陥れた、となっています。

しかし、異論の中には、道真が源善(みなもとのよし)の話しに乗って打倒藤原氏を宇多天皇と画策していたから、冤罪ではなかった、という説もあります。

 

道真左遷の内容

道真が太宰府へ左遷されたのは901年。

既に56歳だった彼には、

10人の息子と3人の娘がいましたが、息子たちはことごとく地方へ飛ばされました。

この処罰は、道真個人に対するものだけでなく、

一族の追放だったのです。

左遷は危険ないやがらせの連続

道真が死の直前に友人の紀長谷雄(きのはせお)に贈ったという道真の記録『菅家後集』があります。

そこには、左遷の道中、反道真派により絶えず危険にみまわれ、

落し穴などの罠や刺客に襲われたこと、

傷ついた馬や半壊した船を与えられるいやがらせをうけていたことが綴られています。

九州での生活はそれ以上に厳しいものでした。

菅原道真が左遷に伴って与えられたのは「大宰員外帥」と呼ばれる名前だけの役職。

大宰府の役人と見なされず、大宰府本庁にも入れませんでした。

給与もなし、従者もなし。

住居は、大宰府政庁南にある荒れ放題の廃屋で、

道真はそこでわびしい暮らしをしいられました。

しかも、時平の差し向けた刺客が常に周囲をウロウロしていたとか。

道真には、離れて生活するのを嫌がったために連れて来た幼い2人の子供がいました。

もともとかなり治安の悪い土地で、親子は励まし合って暮らしていたそうです。

親子で死す

902年秋には2人の子供のうち弟の隈麿(くままろ)が死没し、

数ヶ月後に妻も他界。

そしてその10日後に道真も後を追うように亡くなりました。

2人の子供のうち姉の紅姫は、道真の死後、亡き父親から託された密書を四国にいる長男の菅原高視(たかみ)に届けようと密かに太宰府を脱出。

しかし、藤原氏の追っ手に見つかり、非業の最期を遂げたそうです。

 

梅ヶ枝餅

太宰府天満宮へお参りに行くと、

その参道沿いなどで売っている「梅ヶ枝餅」をよく目にします。

あずき餡が入った薄い餅の生地を鉄板で焼く、梅の刻印が入った焼き餅の一種です。

太宰府へ左遷されて憔悴していた道真に、ある老婆が餅を勧め、それ以降道真の好物になった。

または、

軟禁状態にあった道真が食事もままならなかった時に、老婆が軟禁部屋の格子ごしに梅の枝の先に餅を刺して差し入れた。

という話しがこの餅の由来だとされます。

天満宮への参拝がてら、あつあつのできたてを食べると、とても美味しい梅ヶ枝餅。

この餅の温もりと味わいが、憔悴した道真を少しでも慰めたのだと思いたいですね。

 

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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku 明石 白(akashihaku)Facebook https://www.facebook.com/akashihaku