新選組とは?簡単に説明【完全版まとめ】

 

幕末の京都で活躍した最後の武士たち

新選組

新政府軍に対抗する賊軍として戦った新選組の生き残りは、明治新政府下ではお尋ね者でした。

口をつぐみ、組織に関係する資料などは隠蔽もしくは破棄されたため謎も多い組織です。

新選組とは何だったのか――。

ぎらりと光る、史上最強の剣客集団の爪痕を見ていきましょう。

 

新選組とは

どんな組織?
  • 出身地:京(現在の京都市)
  • 誕生年月日:1863年3月12日(壬生浪士組誕生)
  • 解散年月日:1869年5月14日
  • 幕末に「壬生狼(みぶろ)」と嫌われ、武士よりも武士らしく生きながらも、最後は賊軍として消えた史上最強の剣客集団

 

新選組 年表

年表

西暦

1863年
 3月会津藩お預かり壬生浪士組誕生
 8月八月十八日の政変
 9月隊名を新選組とする

1864年
 6月池田屋事件
 8月禁門の変(蛤御門の変)

1865年
 8月ぜんざい屋事件 土佐勤皇党残党による大坂城乗っ取り計画を阻止

1866年
 9月三条制札事件にて土佐藩士を捕縛

1867年
 11月油小路事件 御陵衛士との抗争
 12月天満屋事件 海援隊士・陸援隊士との戦闘

1868年
 1月鳥羽・伏見の戦い
 3月甲州勝沼の戦いで敗北
 4月近藤勇、板橋刑場にて処刑される
 10月新選組を含む旧幕府軍、箱館・五稜郭へ入城

1868年
 1月函館にて土方歳三戦死
 5月相馬主計が新選組局長に就任し、弁天台場で降伏
 5月旧幕府軍降伏、戊辰戦争終結

 

新選組の足跡

新選組は幕末、
志願者によって作られた京都市中警固のための組織です。

徳川幕府存続のために倒幕派たちと戦い、

最後は賊軍として滅びました。

活躍期間はたったの6年でした。

浪士組から新選組へ

多摩で天然理心流剣術道場・試衛館を開いていた近藤勇

1863年に徳川幕府が募った浪士組に、試衛館門人たち

土方歳三 / 沖田総司 / 井上源三郎、

山南敬介 / 永倉新八 / 原田左之助 / 藤堂平助

と共に参加します。

ところが浪士組の中心人物清河八郎が、当初の目的とされた将軍徳川家茂上洛のための警固ではなく、尊皇攘夷の先鋒としての活動を宣言。

怒った幕府は京に着いた浪士組をすぐに江戸へ戻らせます。

しかし、近藤をはじめとする試衛館一派と芹沢鴨を中心とする水戸派の13名は、当初の目的通り将軍警固のために京に残留。

京都守護職松平容保(まつだいらかたもり)の許可のもと、

1863年3月12日、

「京都守護職預かり 壬生浪士組」が誕生しました。

壬生村に屯所を置いた壬生浪士組は、

地元の人々に「壬生狼」と呼ばれ恐れられます。

しかし過激な長州藩の攘夷行動をストップさせた「八月十八日の政変」で活躍。

のち「京都守護職、会津藩松平肥後守容保中将御預浪士、新選組」を拝名して活動が本格的になります。

その過程では、目に余る狼藉を繰り返す芹沢鴨(せりざわかも)を中心とする水戸派を隊内で粛清

近藤勇を局長とした新選組が誕生しました。

新選組の活躍

1864年6月5日、京を追われた長州藩の過激尊攘派が密かに京に舞い戻り、三条小橋の池田屋でテロ行為の会合をしていたところを新選組が急襲。

攘夷志士を斬殺、捕縛して京での暴挙を未然に防ぎました。

これが新選組の名を世に轟かせた「池田屋事件」です。

その後も新選組は

「禁門の変」

「ぜんざい屋事件」

「三条制札事件」

「播磨屋事件」

「天満屋事件」

など、荒れる尊攘派と渡り合います。

やがて幕府側の雄として大いに頼られ、

ついには幕臣に取り立てられました。

が、それは裏返せば、元浪人や百姓だった男たちを幕臣にせざるを得ないほど、

幕府は弱体化していたということ。

幕藩体制と刀や槍では成立しない時代がもうそこにあったのです。

戊辰戦争で迎える終焉

1867年10月14日、大政奉還

15代将軍徳川慶喜が朝廷に政権を返上し、続く王政復古の大号令で幕府は完全に消滅し、幕臣だった新選組も失職しました。

1868年に勃発した鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争に旧幕府軍として参戦した新選組の戦いは苦しいものでした。

ついに下総流山では新政府軍に包囲され、近藤勇が投降

のち板橋刑場にて処刑されました。

その後の会津での戦いでも旧幕府軍の敗色は濃く、

会津に残留して戦った斎藤一ら一部の隊士たちも最終的には投降。

仙台から函館・五稜郭で戦いを続けた土方歳三は、一本木関門(現・函館市若松町)付近で戦死

数日後の5月14日に相馬主計(そうまかずえ)が新選組局長を継ぎ、弁天台場で降伏して新選組は終焉を迎えました。

その4日後に旧幕府軍も降伏し、戊辰戦争は終結したのです。

 

隊名と隊服

新選組の隊名の由来は諸説あります。

・もともと会津藩の軍編成にあった武芸に秀でた精鋭部隊「新選組」の名前を賜ったという説

・字面通りに「新しく選ばれた者たち」の意味だという説

などです。

武家伝奏もしくは松平容保から賜ったものだと言われています。

隊服として有名な袖口を山型に染め抜いた浅葱色(あさぎいろ)のダンダラ羽織は、芝居『忠臣蔵』の赤穂浪士討ち入りの衣裳の柄。

浅葱色とは、武士が切腹の時に着る裃の色。

新選組の決意が感じられる隊服です。

現在の大丸百貨店にあたる大文字屋呉服店にて製作されました。

しかし、この隊服が使われたのは最初の1年ほどだそう。

隊務では目立たない方が都合の良いことも多く、黒衣・黒袴、もしくは黒羅紗筒袖の陣羽織などを着ていたという証言が残っています。

 

組織

当初の隊士は13名

家を継ぐ長男でなければ年齢や身分(士農工商)による制限はなく、尽忠報国の志がある健康な者であれば、基本的に試験もなく入隊できました。

隊士は200名を超えたこともあり、体制はたびたび変更されたようです。

新選組が大規模化した時(1865年6月時点)は、一番隊から十番隊まであり、それぞれ伍長、平隊士が約10名配属されていました。

剣客として知られた沖田、永倉、斎藤が一番、二番、三番隊を仕切っていました。

体制図

局長近藤勇

参謀伊東甲子太郎

副長土方歳三

副長助勤

  一番隊沖田総司

  二番隊永倉新八

  三番隊斎藤一

  四番隊松原忠司

  五番隊武田観柳斎

  六番隊井上源三郎

  七番隊:谷三十郎

  八番隊藤堂平助

  九番隊:鈴木三樹三郎

  十番隊原田左之助

監察方山﨑丞 ほか7名

勘定方河合耆三郎 ほか4名

 

局中法度と隊内の粛清

浪人や百姓、町人の寄せ集めだった新選組には、彼らを統率するための「規則」が必要でした。

「士道に背くまじき事」をはじめとする5箇条の「局中法度」が有名ですが、実は史料として5箇条全部が揃ったものは発見されていません。

作家・子母沢寛が『新選組始末記』を著す際、隊内の別の規則と混ぜて脚色したと言われています。

ただし規律は実在し、離隊した伊東甲子太郎らを暗殺した油小路事件、総長・山南敬助や河合耆三郎の切腹など、幹部隊士にでさえ規則は厳格に適用されました。

 

なぜ新選組は強かったのか

市中見廻りの際には持ち回りで「死番」とよばれる最初に突入する者が決められていました。

当番の者は、急な事態にも怯まず身を投じる覚悟ができていました。

また剣の達人が揃っていたことに加え、新選組は負けないためのあらゆる戦法を用いました。

常に敵よりも多くの人数で襲撃し、路地に誘い込んでから戦うなど、勝つために見栄を捨てて実を取る泥臭い方法を厭わなかったのでした。

 

きょうのまとめ

最後までお読み頂きありがとうございました。

新選組とは?

簡単にまとめると

① 近藤勇と試衛館門人たちを中心幹部とした、志願者によって作られた市中警固隊

② 13名の隊士から始まり、最盛期には200名を超えた治安維持組織

③ 厳しい規律と誠の心で武士よりも武士らしく生きた男たち

④ 勝つ手段を選ばない戦闘をする、倒幕派にとってはやっかいな、佐幕派には頼れる幕末最強の剣客集団

⑤ 戊辰戦争では旧幕府軍として参戦し、相馬主計を最後の局長として降伏した「賊軍」部隊

と言えるのではないでしょうか。

その他にも新選組にまつわる色々な記事を書いています。

よろしければどうぞ御覧ください。

 










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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku 明石 白(akashihaku)Facebook https://www.facebook.com/akashihaku