新選組メンバー最強 永倉新八とはどんな人物?【完全版まとめ】

 

名だたる剣客が揃う新選組の中で、トップを走る剣の遣い手、

永倉新八(ながくらしんぱち)。

剣は沖田総司や斎藤一をも凌ぐのではないかと言われた実力者、

永倉新八とは、一体どんな人物だったのでしょうか。

 

永倉新八はどんな人?

  • 出身地: 江戸
  • 生年月日: 1839年4月11日
  • 死亡年月日: 1915年1月5日(享年 77歳)
  • 新選組での役職: 副長助勤/二番隊組長/撃剣師範/小銃頭
  • 剣の流派: 神道無念流免許皆伝 心形刀流
  • 愛刀: 播州手柄山氏繁(ばんしゅうてがらやまうじしげ)
  • 墓: 小樽市中央墓地、札幌市里塚霊園、東京都北区滝野川寿徳寺境外墓地、岡山市飽浦松光院墓地
  • 新選組で一、二を争う剣客。戊辰戦争の途中で意見の相違から離隊したが、死ぬまで隊士であったことを誇りにし、本当の新選組の姿を後世に伝えた

 

永倉新八 年表

年表

西暦(年齢)

1839年(1歳)松前藩江戸定府取次役・長倉勘次の次男として江戸上屋敷で誕生

1856年(18歳)元服後、剣術修行のため脱藩 永倉姓を名乗る

1863年(25歳)新選組結成

1864年(26歳)池田屋事件、会津藩主松平容保に近藤勇の非行五ヶ条を提出

1867年(29歳)油小路事件

1868年(30歳)鳥羽伏見の戦い、原田左之助と共に靖共隊(靖兵隊)を結成して新選組を離隊、松前藩に帰参

1871年(33歳)松前藩医・杉村介庵の娘・きねと結婚して婿養子となる

1915年(77歳)小樽にて死去

 

永倉新八の生涯の生涯

本姓は「長倉」です。

松前藩出身ですが、生まれも育ちも江戸。

元服後、剣術修行のため脱藩して姓を「永倉」としました。

新選組での活躍

武州多摩の天然理心流道場・試衛館の食客を経て、

新選組では中核をなす幹部隊士として、主に二番隊組長を務めます。

局長の芹沢鴨とは同じ神道無念流の免許皆伝で、芹沢とも親しくしていました。

そのためか、永倉は試衛館一派による芹沢鴨暗殺には関わっていません。

1864年の池田屋事件では、近藤勇、沖田総司、藤堂平助らと共に最初に斬り込みました。

沖田が昏倒し、藤堂が額のケガで戦闘不能になる中、永倉は左親指を深く切られながらも、近藤と共に獅子奮迅の働きを見せました。

「右手に半紙でぐるぐる巻きの曲がった刀を下げ、左手は黒く血が滲んだ手拭で包まれて戻ってきた」

とは新選組の屯所があった八木家の息子、八木為三郎の証言です。

彼の活躍もあって新選組は過激尊攘派の凶行を未然に防ぎ、その名を天下に轟かせました。

変転の人生

しかし、その後局長近藤の独断専行を不服として永倉は、

原田左之助、斎藤一、島田魁らと共に、切腹覚悟で、近藤の非行五ヶ条を会津藩主松平容保へ直訴

「近藤を局長として認め従うが、我々は近藤の家臣ではなく同志だ」

と主張し、容保のとりなしで近藤と和解しました。

1868年、戊辰戦争開始

永倉は、鳥羽伏見の戦いで決死隊を組み、官軍の銃弾の中、刀一つで勇猛に戦いましたが敗北。

甲州勝沼の戦いの後、ついに近藤と意見を分けて決別し、原田と共に結成した靖共隊(靖兵隊)で各地を転戦しました。

新選組、靖共隊を含めた旧幕府軍が敗北すると、永倉は江戸へ帰還

のち松前藩へ帰藩します。

1871年には藩医の杉村介庵の婿養子となり、家督を継いで杉村治備(のち義衛)と名乗りました。

その後北海道小樽で樺戸集治監の剣術師範を務め、東京で剣術道場を開いた後は、

また小樽に戻り、1915年1月5日に亡くなるまでその地で暮らしました。

樺戸集治監: 明治新政府が設置した国立の監獄

 

永倉新八にまつわるエピソード

「一に永倉」の剣

剣客集団新選組の中で一番強かったとも言われる永倉。

戊辰戦争後も生き延びた元新選組隊士で、御陵衛士だった阿部十郎は、

剣の腕前は「一に永倉、二に沖田、三に斎藤」と評しました。

永倉の剣の得意技は、

下段の構えから上へと相手の剣を擦り上げたと思ったら素早く下へ切り下げる「龍飛剣」でした。

人情と道理の男

幹部隊士の山南が脱走した後、屯所に連れ戻されると再度の脱走を勧め、

油小路事件で、御陵衛士たちとの戦いの際、近藤の意向を汲んで元新選組の藤堂平助を逃がそうとした永倉。

強さだけでなく、人情のある男でした。

病床の沖田の代わりに彼の一番隊も指揮し、重要任務を遂行して、

一人また一人と幹部隊士が脱落していく中、ひたむきに新選組を支え続けました。

だからこそ、近藤の増長した態度には「非行五ヶ条」を掲げて道理を問わずにいられませんでした。

功績

考え方の相違から新選組を離脱した永倉ですが、

数少ない新選組の生き残りとして活動しました。

明治に入ってから『浪士文久報告記事』『七ヶ所手負場所顕ス』を記し、

小樽新聞の取材に協力して『新選組顛末記』を残しました。

これらが「悪の人斬り集団」イメージを覆す、新選組再評価の契機となったのです。

近藤勇の遺骨を拾うために新選組に好意的だった医師・松本良順と共に奔走し、

東京滝野川の寿徳寺に、土方歳三の分も合わせた供養の墓を建立。

記憶する限りの隊士の名を『同志連名記』なる書に残しました。

死ぬまで新選組

「竹刀の音を聞かないと飯が喉に通らない」、「自分は剣術の他に能はない」

と晩年まで剣の稽古・指導に携わった永倉新八。

老年になっても、映画館の出口で地元のヤクザにからまれた際、

鋭い眼力と一喝で退散させたという逸話も残るほど。

酒に酔うとふんどし一枚になり、銃創を叩きながら、

「お国のために働いた体だ。わしの誇りだ」

と自慢げでした。

彼の陣羽織を改造して作ったチョッキが残っています。

銃創2ヶ所と刀傷5ヶ所について説明されており、併記された署名を見れば、彼の心が新選組と共にあったことがわかります。

「明治四十四年十二月十一日 京都守護職松平肥後守御預り 新撰組副長助勤長倉新八載之改メ杉村義衛治備七拾三歳」

そこには、靖共隊でも松前藩でもなく、新選組としての永倉の名前があったのですから。

「武士(もののふ)の節を尽くして 厭(あく)までも貫く竹の心一筋」

永倉新八の辞世の句です。

 

きょうのまとめ

最後までお読み頂きありがとうございました。

永倉新八についていかがでしたでしょうか。

永倉新八とは?

簡単にまとめると

① 新選組一とも言われる剣客

② 道理を通し、竹のように真っ直ぐ生き、男気あふれたサムライ

③ 新選組を誇り戊辰戦争を生き残って、明治以降の新選組の再評価に貢献した人物

と言えるのではないでしょうか。

その他にも新選組にまつわる色々な記事を書いています。

よろしければどうぞ御覧ください。

 

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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku 明石 白(akashihaku)Facebook https://www.facebook.com/akashihaku