新選組メンバー山南敬介とはどんな人物?【完全版まとめ】

 

新選組の規律の厳しさ、非情さを語るときに必ず挙げられる

幹部隊士・山南敬助の切腹。

何も語らず死んでいった山南敬助はどんな人物だったのでしょうか。

 

山南敬介はどんな人?

  • 出身地: 陸奥国仙台
  • 生年月日: 1833年
  • 死亡年月日: 1865年3月20日(享年 33歳)
  • 新選組での役職: 副長、総長
  • 剣の流派: 小野派一刀流免許皆伝、北辰一刀流、天然理心流
  • 愛刀: 播州住人赤心沖光(ばんしゅうじゅうにんせきしんおきみつ)
  • 墓: 京都市下京区四条大宮町光縁寺
  • 「武人にして文あり」と称され、試衛館門人として新選組創設に寄与した剣客だったが、心の行き違いからその新選組の法に潔く散った

 

山南敬介 年表

年表

西暦(年齢)

1833年(1歳)奥州仙台藩士の家に生まれる

1863年(31歳)
 浪士組に参加し上洛、のち壬生浪士組の一員となる。
 殿内義雄暗殺、大坂力士乱闘事件、芹沢鴨粛清に参加。
 岩城升屋事件にて重傷を負う

1864年(32歳)新選組総長となる
       
1865年(33歳)
 新選組から脱走、のち大津にて沖田に発見され屯所に戻る、
 沖田総司の介錯による切腹

 

山南敬介の生涯

仙台藩士の次男とも言われる山南敬助。

「サンナンさん」と親しまれ、本人が「三南」と署名したことも。

しかし、本当の苗字の読みが「ヤマナミ」か「サンナン」かは不明です。

試衛館メンバーと共に活躍

江戸で小野派一刀流の免許皆伝となり、北辰一刀流の千葉道場の門人という剣の遣い手。

柔術の名手でもありました。

天然理心流道場・試衛館での他流試合で近藤勇に負け、実戦的な天然理心流と近藤の腕・人柄に感服し、試衛館の門人同様になります。

1863年から壬生浪士組の一員となり、「殿内義雄暗殺」「八月十八日の政変」「大坂相撲力士との乱闘」「芹沢鴨暗殺」「岩城升屋事件」などで活躍。

壬生浪士組では副長に、新選組となってからも、総長として局長近藤に次ぐナンバー2の存在でした。

しかし、山南は1863年の岩城升屋事件で受けた左腕の重傷で刀が振れなくなったといわれ、池田屋事件を含めたそれ以降の戦闘には不参加でした。

脱走、そして切腹

1864年10月に伊東甲子太郎らが入隊。

北辰一刀流の遣い手であり、尊王攘夷論者のインテリ剣士の伊東は、山南よりも上位の参謀として格別の待遇を受け、山南の立場は弱くなっていきました。

1865年2月、山南は「江戸へ行く」の置き手紙を残して新選組を脱走。

しかし、近江国(滋賀県)大津で追っ手の沖田総司に発見され、屯所に戻ります。

そして、同月23日、隊規に従い脱走の罪で切腹。

介錯は山南の希望で、沖田総司が務めました。

葬儀では隊士以外の多くの人々にも見送られ、その人柄が偲ばれました。

享年33。

 

山南にまつわるエピソード

山南脱走の理由

屯所の移転先として、勤王派の牽制目的で長州藩と親密な西本願寺を選んだ新選組に立腹・決別したという説があります。

また、勤王の志士への弾圧を行う新選組に疑問を持った、刀を振れない腕の自分を悲観した、伊東甲子太郎の参入で居場所を失った、そもそも脱走のつもりがなかったと言う説も。

彼を逃がそうとする沖田を制し、一緒に屯所に戻った山南。

幹部の永倉や同門伊東らが再度の脱走を勧めても彼は逃げず、どう尋ねてもその本心を述べることはありませんでした。

山南の女、天神・明里

永倉の配慮で、山南の馴染みだった島原の天神・明里(あけさと)が彼の元に駆けつけ、屯所・前川邸の格子窓越しに今生の別れをしたという話があります。

これは作家・子母沢寛による創作の可能性があります。

が、山南の遺言により、沖田がその後の明里の面倒を見ていたという話しもあり、明里は実在したかもしれません。

涙を流し、格子を掴んだままその場を動こうとしない明里を見て、山南はすっと障子を閉め、その後切腹したそうです。

親切者・山南

背はそれほど高くなく、色白の愛嬌のある顔で、温厚、子供好き。

どこで会っても必ず声を掛けてくるような人物でした。

幹部隊士・松原忠司と共に、「親切者は山南・松原」という言葉が壬生あたりに明治の初め頃まで伝わっており、新選組への辛辣な批評で知られる西本願寺の西村兼文でさえ、山南には好意的です。

そんな山南も浪士組上洛の際、目付役の「貴公の組は乱暴で迷惑だ」という言葉に激昂したとか。

仲間のために自らが立ち上がって一歩も引かずに抗議し、取締役の山岡鉄舟の仲裁で目付役が謝ると、たちまち笑顔になったという逸話があります。

光縁寺との縁

山南敬介の家紋である「丸に右離れ三つ葉立葵」と光縁寺の家紋が同じというきっかけで、当寺の良誉(りょうよ)上人と昵懇(じっこん)となりました。

その縁で、新選組で切腹した隊士も良誉上人に弔われることになったのです。

藤堂平助や松原忠司などを含めて28名の隊士たちの墓が光縁寺にありますが、その中に自分の墓が含まれることを生前の彼が考えることがあったでしょうか。

 

きょうのまとめ

最後までお読み頂きありがとうございました。

山南敬助についていかがでしたでしょうか。

山南敬助とは?

簡単にまとめると

① 学才があり、道理を重んじる剣客

② 誰にも打ち明けられない理由で隊を脱走、切腹した心優しき新選組幹部

③ 多くの人々に慕われた「サンナンさん」

と言えるのではないでしょうか。

その他にも新選組にまつわる色々な記事を書いています。

よろしければどうぞ御覧ください。

 

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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku 明石 白(akashihaku)Facebook https://www.facebook.com/akashihaku