近藤勇とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

近藤勇こんどういさみは有名です。

名前を知らない人はいないのではないかというくらいに有名な幕末時の人物でしょう。

幕末期に活躍した新撰組の局長として多くの時代小説に登場するだけではなく、その他の小説、漫画、アニメキャラのモデルにまでなっています。

握りこぶしが口に入るという言葉を証明するかのような真一文字に結ばれた無骨な男の近藤勇の写真は今に残っていますね。

見たことがある方も多いと思います。

しかし、新撰組局長・近藤勇はいったい具体的になにをなしたのか?

今回は幕末の動乱期に武士として生きた近藤勇の人物について説明していきます。

 

近藤勇はどんな人?

プロフィール
近藤勇

出典:Wikipedia

  • 出身地: 武蔵国多摩郡上石原村(東京都調布市野水)
  • 生年月日:1834年11月9日
  • 死亡年月日:1868年5月17日(享年35歳(満33歳))
  • 幕末期の武士。新選組局長として幕臣に取り立てられ京都治安の任に就く。その後、滅び行く旧幕府勢力ともに戊辰戦争で戦う。天然理心流の達人であった

 

近藤勇年表

年表

西暦(年齢)

1834年(1歳)武蔵国多摩郡上石原村に生まれる。(幼名、勝五郎)

1849年(16歳)天然理心流剣術道場・試衛館に入門。

1860年(27歳)幕臣の松井家の長女、松井つねと結婚。

1861年(28歳)近藤勇と名乗る。

1863年(30歳)新選組の前身集団「壬生浪士組みぶろうしぐみ」を結成する、土方歳三も加わる。

1863年(30歳)近藤勇を中心とする試衛館派が芹沢鴨、平山五郎を暗殺し「新撰組」の形ができる。

1864年(31歳)池田屋事件を起こす。京都の池田屋に隠れていた長州藩、土佐藩などの尊王攘夷派志士を新選組が襲撃し暗殺する。

1864年(31歳)禁門の変で長州藩士の鎮圧に出動し、朝廷・幕府・会津藩から感状と200両余りの恩賞を下賜される。

1867年(34歳)江戸幕府15代将軍・徳川慶喜により大政奉還が行われ、近藤勇率いる新撰組は旧幕府勢力ともに戊辰戦争に参戦。

1868年(35歳)官軍に包囲され投降し、板橋刑場で斬首となる。

 

近藤勇が率いた新撰組の「池田屋事件」とは?

1863年8月、江戸幕府は攘夷派を京都から追放します。

公武合体政策を進めるためでした。

これを「八月十八日の政変」といいます。

しかし、長州藩を中心とする攘夷を訴える志士は相変わらず京都に潜伏し、江戸幕府にとっての非合法活動を続けます。

彼らは孝明天皇を長州に連れて行き、一橋慶喜や京都守護職にあった松平容保の暗殺を計画します。

江戸幕府からみれば過激派かテロリストのようなものですね。

この計画を知った新撰組・近藤勇は、攘夷派による「テロ計画」の密談が行われていた池田屋を急襲。

テロを計画していた過激思想を持つ攘夷派40人を捕縛したのです。

池田屋に踏み込んだのは、近藤勇の他、土方歳三、永倉新八、沖田総司もいました。

ここで、沖田総司が喀血かっけつ(肺・気管支から出た血をせきとともに吐き出すこと。肺結核などが原因。)したといわれています。

池田屋事件は、近藤勇の名と新撰組の名を有名にしました。

ちなみに、新撰組イメージの着物にはちょっとした勘違いが定着しています。

時代劇に出てくる水色のダンダラ模様の着物は新撰組が創設されて1年間しか使用されていません。

池田屋事件のときには、黒尽くめ衣装であったということです。

 

近藤勇のエピソードと伝説

近藤勇と彼が局長を務めた新撰組の伝説について紹介します。

近藤勇は口に握りこぶしが入ったの?

近藤勇は今でも写真が残っています。確かにその顔を見ると無骨そのもの。

口は真一文字に閉じられ、拳すら入りそうです。

実際に入ったという逸話が残っていますので、本当に入ったのでしょう。

しかし、なぜこんな変な逸話が残っているのでしょうか。

新撰組の生き残りで、その後、新撰組のことを伝えることに尽力した島田魁の残した文書によると以下のような理由であったためです。

近藤勇は戦国武将の加藤清正に憧れていました。

虎退治で有名な豊臣秀吉の家臣だった加藤清正です。

そして、近藤勇は加藤清正が「口に握りこぶしが入った」という逸話を知りました。

憧れの人の真似をして「口に握りこぶしが入った」という話が伝わっています。

近藤勇と土方歳三の出会い

新撰組の局長・近藤勇とその片腕の土方歳三はいつ出会ったのでしょうか。

歴史ファンの人気だけではなく、多くのフィクションにも登場する新撰組。

フィクションなどではふたりは幼馴染であったり、昔からの知り合いであったりと描かれたりもします。

実際のところ、ふたりの出会いには諸説あり、いまのところ決め手になる説はないようです。

近藤勇と土方歳三は意外に近くに住んでいましたので、面識はあったのかもしれません。

当時としては近くであって、歩いて二時間くらいの距離のところです。

それでも、幼いときに出会っていた可能性は否定ができず、そこにいろいろなフィクションの想像の余地が入るのでしょう。

しかし、近藤勇と土方歳三が、実際に出会っただろうとされる時期は、近藤勇が17歳のときです。

近藤勇が養父となる近藤周介の開いた天然理心流「試衛館」に入門したころではないかといわれます。

このころ、武士を目指していたが土方歳三が、師匠のツテで近藤勇の道場に出稽古にやってきていました。

おそらく近藤勇が17歳、土方歳三16歳のときに出会ったと考えるのが自然ではないでしょうか。

年齢も同じく、元々の出自が純粋な侍ではないが、侍を目指すと言う点でふたりは意気投合したのかもしれません。

しかし、現代になってから近藤勇と土方歳三のふたりの人気に大きな差がありますね。

その一因として、写真が残ってしまっていることがあるかもしれません。

土方歳三にとっては大きなプラスで、近藤勇にとっては……

土方歳三は、今残っている写真で見てもイケメンですからね。

まあ、新撰組のファンには女性が多いのですから仕方ないところもあるでしょう。

ちなみに、沖田総司はさほどイケメンであったと言う話は残っていません。

色黒でヒラメみたいな顔をしていたというような証言は残っています。

剣の達人・近藤勇が指示した新撰組の戦い方とは?

近藤勇は剣の達人で、虎徹を所持していたと言われます。

しかし彼が局長としてリーダーを務めた新撰組の戦い方は非常に実践的で、創作の剣豪のような戦い方をしていませんでした。

おそらく、近藤勇は一対一の戦いでも相当に強かったでしょう。

ただ真剣をもって斬りあう殺し合いはスポーツではありません。

新撰組は「集団戦法」をとっていました。

これは、相手を逃がさず取り囲むと言うことを目的としています。

池田屋事件でも皆殺しにしたわけではなく、捕縛をしているのです。

また1対多の集団戦法であれば、味方の危険も減ります。被害を受けることなく、成果を上げるにはいい戦法だったのでしょう。

ただ集団戦法は熟練していないと、同士討ちの危険もあります。

近藤勇が率いる新撰組の剣士が熟達した腕を持っていたからこその「集団戦法」ではなかったでしょうか。

決して弱い者が群れていたわけではないのです。

 

きょうのまとめ

最後までお読み頂きありがとうございました。近藤勇についていかがでしたでしょうか。

近藤勇とは?

① 新撰組局長として池田屋事件で過激思想を持つ攘夷派40人を捕縛

② 戊辰戦争で捕虜となって刑死

③ 口が大きく握りこぶしが入ったのは、加藤清正に憧れていたから

その他の記事についても近藤勇にまつわる色々な記事を書いています。

よろしければどうぞ御覧ください。

 

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