日本史について調べていると、「『日本書紀』ではこうなっています」と書いてあることってありませんか?
ふーん、そうなのねといった感じになりますが、そういえば『日本書紀』って何なのでしょうか。
「そんなの知っているよ」という方、では『古事記』との違いを説明できますか。
今回は日本書紀とは何なのか、
そして藤原不比等との関わりについて紹介していきます。
タップでお好きな項目へ:目次
日本書紀とは?簡単に説明
『日本書紀』は日本最古の正史。
正史とは、国が編纂した正式な歴史書のことです。
40年がかりで編纂された歴史書
『日本書紀』の編纂は、天武天皇の命をきっかけとして始められました。
そして40年近くの歳月をかけ、720年、元正天皇の時代に完成します。
その後『日本書紀』は、遣唐使を通じて中国の王朝にも献上されました。
全30巻の『日本書紀』には、天地開闢から持統天皇までの歴史が記されています。
『古事記』とは何が違うの?
『日本書紀』の完成前、712年、元明天皇に献上されたのが『古事記』です。
『古事記』にも天皇家の歴史が書かれており、『日本書紀』と何が違うのか疑問をお持ちの方も多いかもしれません。
ですが、両者は下記の点が違うといわれています。
まず、書かれている歴史がずれていること。
『日本書紀』は神代から持統天皇までが書かれているのに対し、
『古事記』では神代から推古天皇までしか書かれていません。
また、記述方法も違います。
『日本書紀』が編年体(年ごとに起こった出来事を記す方法のこと。)で記されているのに対し、
『古事記』は紀伝体(一つの出来事を中心として記す方法のこと。)で記されています。
なので、物語として親しみやすいのは『古事記』だそうですよ。
正確な記述がされているのか?
歴史書というのは一般に、当時の権力者の意向が反映されるといわれています。
試しに例を挙げてみると、鎌倉時代に成立した『吾妻鏡』は北条家に都合の良い記述がなされています。
藤原不比等は内容をねつ造していた?
さて、『日本書紀』の編纂・完成時期に権力を握っていた人物といえば藤原不比等。
不比等自身が編纂に関わったともいわれることがあります。
そのため、藤原氏に都合の良いように『日本書紀』の内容をねつ造したのでは? と考える人もいるんですよ。
聖徳太子と推古天皇は架空だった!?
例えば聖徳太子や推古天皇は、不比等がつくったという説がありますので紹介しますね。
藤原氏は自身の娘を天皇の妃にし、生まれた子を天皇にする外戚政策を行ったことでも知られています。
不比等は、皇位を自身の子孫に継がせていくには、万世一系の神話をつくる必要があると考えたといいます。
しかし実際には、蘇我氏がかなり強大な力(蘇我王朝とも言うべき)を持っていた時代がありました。
この事実は、万世一系の神話には邪魔になりますよね。
蘇我氏の存在は都合が悪い……
そこで聖徳太子や推古天皇といった存在をつくり上げ、蘇我馬子の功績を彼らの功績に変えてしまった、という説です。
つまり二人は、蘇我氏の存在感をなくすためにつくられた存在だったというのですね。
信じるか信じないかはあなた次第です。
興味のある方は、もっと詳しく調べてみてくださいね。
きょうのまとめ
今回は藤原不比等らによって編纂された『日本書紀』について、簡単にご紹介しました。
② 『日本書紀』には、神代から持統天皇の時代までの歴史が編年体で書かれている
③ 聖徳太子と推古天皇は、藤原不比等に都合良くねつ造した存在であるという説もある
こちらのサイトでは他にも、藤原不比等にまつわる記事をわかりやすく書いています。
より理解を深めたい方は、ぜひお読みになってくださいね。
その他の人物はこちら
飛鳥時代に活躍した歴史上の人物
関連記事 >>>> 「【飛鳥時代】に活躍したその他の歴史上の人物はこちらをどうぞ。」
時代別 歴史上の人物
関連記事 >>>> 「【時代別】歴史上の人物はこちらをどうぞ。」
コメントを残す