藤原不比等の家系図からみる奈良時代の日本の政治

 

藤原不比等の家系図を見ると、

藤原氏がどれほど政治の中心にいたか、ということがわかります。

そこで今回は不比等の家系図をベースに、

700年代の日本の政治事件について、簡単に紹介していきます。

 

藤原不比等の家系図

藤原不比等

出典:Wikipedia

まずは、藤原不比等の家系図をみていきましょう。

藤原不比等の家系図
藤原不比等の家系図

藤原氏とは?

藤原氏はそもそも、中臣鎌足(なかとみのかまたり)から始まった家系です。

中臣鎌足とは中大兄皇子(なかのおおえのおうじ/のちの天智天皇)とともに、「大化の改新」を推進した人物。

大化の改新とは、「乙巳(いっし)の変」に始まる一連の政治改革のことです。

乙巳の変では、蘇我蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)親子を倒しましたが、蘇我氏が滅亡したわけではありません。

彼らは、

  • 公地公民制(土地と人民を天皇のものとすること)
  • 地方制度(行政区画の決定など)
  • 班田収授(田を人民に与え、死んだら国に返させること)
  • 新たな税制

などを実現しようとしました。

そして中臣鎌足は臨終の際、天智天皇から「藤原」という姓を賜ります。

これが日本の政治を長きにわたって支配する、藤原氏の始まりでした。

 

藤原不比等とは?

藤原不比等は中臣(藤原)鎌足の次男です。

他方で長男は貞恵という僧でした。

不比等は

  • 大宝律令の制定
  • 養老律令の編纂
  • 平城京遷都

に力を尽したことなどが知られています。

同時に、自分の娘を天皇に嫁がせることで勢力を伸ばしたことでも有名です。

 

不比等の家系図に出てくる人物たち

それでは家系図の登場人物を中心として、

700年代の日本に起こった事件などを見ていくことにしましょう。

藤原宮子(文武天皇夫人)

不比等の娘・宮子(みやこ)は、文武(もんむ)天皇の夫人(ぶにん)となりました。

文武天皇と宮子の間には、首皇子(おびとのおうじ/のちの聖武天皇)が生まれています。

不比等は首皇子を皇位に就かせるため、力を尽くしたといわれています。

藤原四子

不比等の4人の息子「藤原四子(しし)」といい、それぞれが家を興しています。

  1. 南家 藤原武智麻呂(むちまろ)
  2. 北家 藤原房前(ふささき)
  3. 式家 藤原宇合(うまかい)
  4. 京家 藤原麻呂(まろ)

四子は不比等の死後、皇族代表として権勢をふるっていた長屋王(ながやのおう)を自殺に追い込みました。

この出来事を「長屋王の変」といいます(729年)。

そして光明子(のちほど詳しく)を聖武天皇の妃とすることに成功し、藤原氏は権力を握ることに成功しました。

しかし737年、四子は天然痘にかかり、全員亡くなっています。

光明子(聖武天皇の妃)

光明子(こうみょうし)は藤原不比等のです。

東大寺の大仏を建立したことでも有名な、聖武天皇の妃となりました。

そのため「光明皇后」、「光明皇太后」とも呼ばれます。

藤原宮子のところで説明したとおり、聖武天皇は不比等の孫にあたります。

そこへ、さらに娘を嫁がせているのですね。

さらに聖武天皇と光明子の間には阿倍内親王が生まれています。

阿倍内親王はのちに孝謙天皇・称徳天皇となった女性です。

二度即位しているため、孝謙天皇と称徳天皇という二つの名称があります。

不比等の血はこれでもかというほど、天皇に流れていたということですね。

藤原広嗣

聖武天皇は何度も都を遷したことでも有名ですね。

そのきっかけとなったのが、「藤原広嗣の乱(740年)」でした。

藤原広嗣は藤原四子・式家の宇合の子

四子が病死した後、政権を握ったのは橘諸兄(たちばなのもろえ)でした。

広嗣はその政権の実力者であった、

吉備真備(きびのまきび)と玄昉(げんぼう)を排除しようとして九州で挙兵しました。

吉備真備: 唐への留学経験を持ち、橘諸兄政権の顧問格となった人物。

玄昉: 唐への留学経験を持つ、法相宗の僧。

結局、乱は鎮められて失敗に終わっています。

しかしそれに衝撃を受けた聖武天皇。

平城京を離れ、次々と遷都を繰り返すのでした。

藤原仲麻呂(恵美押勝)

橘諸兄の次に政権を握ったのが、藤原仲麻呂でした。

仲麻呂は南家・武智麻呂の子です。

淳仁天皇(天武天皇の孫)を即位させ、養老律令の施行などを行っています。

また淳仁天皇からは、恵美押勝(えみのおしかつ)という名を賜りました。

 

孝謙太上天皇(だいじょうてんのう/皇位を譲った天皇のこと)は仲麻呂を用いましたが、

次第に道鏡という僧が寵愛を受けることになります。

そこで764年、道鏡を除こうとしたのが「藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱」です。

ですが失敗し、仲麻呂は近江で亡くなりました。

道鏡は、仏教政治を行い、皇位得ようとしますが、

和気清麻呂により阻止されます。(769年 宇佐八幡宮信託事件)

 

きょうのまとめ

今回は藤原不比等の家系図と700年代の日本の政治について、簡単に紹介しました。

① 藤原氏は不比等の父・中臣鎌足から始まった

② 不比等は天皇に自分の娘を嫁がせて、勢力の拡大を図った

③ 不比等の子や子孫は政治の中枢にいたため、政争に絡むことも多かった

こちらのサイトでは他にも、藤原氏にまつわる記事をわかりやすく書いています。

より理解を深めたい方は、ぜひお読みになってくださいね。

 

藤原不比等の【完全版まとめ】記事はこちらをどうぞ
関連記事 >>>> 「藤原不比等とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】」

 










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2 件のコメント

  • このようなサイトを作って頂き、ありがとうございます!
    ところで、宇佐美八幡信託事件を起こしたのは、道鏡ではなく、孝謙天皇に派遣され、藤原仲麻呂に裏で動かされていた和気清麻呂ですよね?

    • ご覧頂きありがとうございます!
      ご指摘ありがとうございます。
      大変助かります。
      下記のとおり修正させて頂きました。

      >道鏡は、仏教政治を行い、皇位得ようとしますが、
      >和気清麻呂により阻止されます。(769年 宇佐八幡宮信託事件)

      今後ともよろしくお願いいたします。

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