藤原不比等の子どもたちが死んだのは長屋王の祟りだった?

 

藤原氏繁栄の基礎をつくった藤原不比等ふじわらふひと

4人の息子たちは優遇され、はじめから高い位に就くことが許されていました。

しかしそんな息子たちが突然、全員病気で亡くなります。

これは当時、とある人物の祟りであると噂されていました……。

今回は藤原不比等の息子たちの死因について、簡単に紹介していきます。

 

長屋王の変とは?

藤原不比等

出典:Wikipedia

729年、当時権勢をふるっていた長屋王ながやおうが自殺に追い込まれました。

長屋王とは、天武天皇の孫にあたる人物。

藤原不比等の死後に左大臣となった彼は、藤原氏を遠ざけて皇親政治を推進していました。

一家ごと消された長屋王

そんな中、謀反を企てたという密告により、長屋王の邸宅は突然官兵に取り囲まれます。

その翌日、

長屋王は自殺

さらにその次の日には、

長屋王の妻・吉備内親王(元明天皇の二女)とその子どもたちまで自殺に追い込まれました。

藤原四子の罠

これの出来事を「長屋王の変」といいます。

しかし長屋王には謀反の意図はなく、罠にはめられただけだったのです。

すべては藤原不比等の4人の兄弟、つまり藤原四子しし

武智麻呂むちまろ房前ふささき宇合うまかい麻呂まろによる策謀でした。

長屋王が狙われた理由

当時の藤原氏は、光明子こうみょうし(藤原不比等の娘)と聖武天皇との間に生まれた男児が亡くなり、

天皇の外戚となるチャンスを失っていました。

そして次の皇位継承候補となりえるのが、長屋王家でした。

長屋王もその妻・吉備内親王も血筋が良かったからです。

そこで藤原氏にとって何かと目障りな長屋王を、一家ごと消そうと考えたわけです。

 

わずか3ヶ月で全員死亡

長屋王の変の後、藤原四子は全員が議政官という地位に就きました。

議政官とは大臣大納言中納言参議のことです。

房前と武智麻呂はすでに議政官でしたが、加えて宇合と麻呂も参議になりました。

さらに武智麻呂は右大臣に就任したことで、藤原四子による政権が誕生しました。

しかしそれから8年、わずか3ヶ月の間に四子は全員、

当時大流行していた天然痘てんねんとうにかかって亡くなります。

これは冤罪で死に追いやられた長屋王の怨霊の仕業である、

と当時の人びとは信じていたようです。

実際には、四人が揃って会った使者が天然痘だったから、だそうですよ。

またもや長屋王、冤罪をかけられてしまいましたね。

 

きょうのまとめ

今回は長屋王の変と藤原四子の死因について、簡単にご紹介しました。

① 藤原不比等の死後、政権を握ったのは長屋王だった

② 長屋王は政敵・藤原四子の罠にはまって自殺した(長屋王の変)

③ 藤原四子は全員、天然痘にかかって亡くなった

こちらのサイトでは他にも、藤原氏にまつわる記事をわかりやすく書いています。

より理解を深めたい方は、ぜひお読みになってくださいね。

 
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