天皇と結婚した藤原不比等二人の娘にまつわるエピソード

 

藤原氏といえば、皇室の縁戚となって繁栄した一族としても有名です。

その始まりは、藤原不比等でした。

不比等は娘を皇室に嫁がせることによって、勢力を伸ばしたのです。

そこで今回は天皇のもとへ嫁いだ、

不比等の二人の娘について紹介していきます。

 

藤原不比等の二人の娘

藤原不比等には何人か娘がいたといわれていますが、

そのうち二人が天皇と結婚しています。

文武天皇の夫人・藤原宮子

まず一人目は、藤原宮子(ふじわらのみやこ)です。

宮子は不比等と先妻・賀茂比売(かもひめ)との間にできた子といわれています。

そんな宮子は697年、文武天皇の夫人(ぶにん)となりました。

これは

・藤原氏側が娘を送り込んだ、

・皇室側から「中臣鎌足(※1)の子孫を天皇の配偶者にしたい」という要請があった

などと考えられています。

※1 藤原不比等の父。中大兄皇子(なかのおおえのおうじ/のちの天智天皇)とともに蘇我氏を倒した人物。天智天皇と深い信頼関係があった。

701年、宮子は首皇子(おびとのおうじ/のちの聖武天皇)を産んでいます。

その後、文武天皇は25歳という若さでこの世を去り、

元明天皇(文武天皇の母)・元正天皇(文武天皇の姉)という女帝が連続で皇位に就きました。

 

そして724年、聖武天皇が即位すると、「辛巳(しんし)事件」が起きます。

辛巳事件とは、聖武天皇が母・宮子の尊号(尊敬して呼ぶ称号)に関する詔(みことのり)を出したことに始まります。

それまで天皇の母は「皇太夫人(こうたいふじん)」でしたが、

聖武天皇は宮子のことを「大夫人(だいぶにん)」と呼ばせようとしたのです。

これは、藤原氏の権威を高めるための藤原氏側の策略とみられ、

当時、皇族を代表する勢力を持っていた長屋王(ながやおう)は反発しました。

結局この事件は、文章では宮子を「皇太夫人」とし、

口頭では「大御祖(おおみおや)」と呼ぶことで決着がつきました。

ですが、これがのちの「長屋王の変」につながる一因となったといわれています。

 

聖武天皇の皇后・光明子

さて、首皇子が誕生したのと同じ年、藤原不比等にも娘が生まれていました。

後妻・県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)(※2)との間にできた、

安宿媛(あすかべひめ)です。

※2 安宿媛を産む前に、美努王(みぬおう)との間に橘諸兄(たちばなのもろえ)らをもうけています。

安宿媛は光明子(こうみょうし)とも呼ばれ、やがて聖武天皇の妃となりました。

従来、皇后になれるのは皇族出身の女性に限られていましたが、

光明子はその慣例を破り、藤原氏出身でありながら皇后の座に就きます。

ちなみにこの時も、前述した長屋王は、光明子が皇后になることに反対しています。

前例を破ってまで、光明子を皇后にする。

これは当時の藤原四子(※3)政権を盤石にするためだったといわれています。

※3 藤原不比等の子、武智麻呂・房前・宇合・麻呂の4兄弟のこと。光明子は4人の妹にあたる。

聖武天皇と光明子との間に、将来天皇となる子が生まれれば、

外戚(=母方の親族)となって力をふるえるからです。

しかし結局二人の間には、将来天皇となる男子は生まれませんでした。
(男子は生まれましたが、夭逝(ようせい)しています。)

一族の期待に添えなかった光明子でしたが、悲田院や施薬院という施設をつくり、

孤児や貧窮者、病人などの救済を行ったことでも知られています。

 

きょうのまとめ

今回は天皇と結婚した、

藤原不比等の二人の娘について簡単に紹介しました。

① 藤原宮子は文武天皇の夫人となり、のちの聖武天皇を産んだ

② 辛巳事件で藤原氏と長屋王は対立を深めた

③ 光明子は聖武天皇の皇后となるが、将来の天皇は産めなかった

④ 光明子は孤児や病人の救済などに尽くした

こちらのサイトでは他にも、藤原不比等にまつわる記事をわかりやすく書いています。

より理解を深めたい方は、ぜひお読みになってくださいね。

 










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