光明皇后とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

初めて皇族以外から皇后になった

光明皇后

彼女は一体、どんな人物だったのでしょうか。

今回は彼女の生涯について、簡単にご紹介していきます。

 

光明皇后はどんな人?

プロフィール
  • 出身地:?
  • 生年月日:701年
  • 死亡年月日:760年6月7日(享年 60歳)
  • 聖武天皇の皇后。父は藤原不比等。仏教を篤く信仰し、社会事業などに尽力したことでも有名。

 

光明皇后 年表

年表

西暦(年齢)

701年(1歳)藤原不比等の子として生まれる。

716年(16歳)首皇子(おびとのおうじ)の皇太子妃となる。

718年(18歳)阿倍内親王を出産。

720年(20歳)父・藤原不比等が亡くなる。

724年(24歳)聖武天皇即位。

727年(27歳)基王を出産。

728年(28歳)基王死去。

729年(29歳)人臣初の皇后となる。

730年(30歳)悲田院・施薬院を設置する。

733年(33歳)母・県犬養橘三千代(あがたいぬかいのたちばなのみちよ)が亡くなる。

734年(34歳)興福寺西金堂の造立。

749年(49歳)孝謙天皇即位。

754年(54歳)鑑真より授戒。

756年(56歳)聖武太上天皇崩御。

760年(60歳)崩御。

 

光明皇后の生涯簡単まとめ

光明皇后は、藤原不比等と県犬養橘三千代(あがたいぬかいのたちばなのみちよ)の娘として誕生しました。

「光明皇后」とは文字通り皇后になってからの呼び方であって、

その前は安宿媛(あすかべひめ)や光明子(こうみょうし)、藤三娘(とうさんじょう)など、色々な呼び方があります。

以下、皇后になるまでは光明子としますね。

光明子は16歳のとき、首皇子(おびとのおうじ/のちの聖武天皇)の妃となりました。

長屋王の変で皇后に

夫の聖武天皇は24歳のときに即位し、それから3年後には待望の男児・(もとい)王が誕生します。

基王は生まれてすぐに皇太子となりましたが、1歳にも満たないうちに亡くなっています。

 

また基王の死去から8年前には、父の藤原不比等も亡くなっています。

そのため藤原氏は、不比等の息子たち4兄弟(=藤原四子)(※1)の代になっていました。

※1 武智麻呂(むちまろ)・房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂

そんな藤原四子と政治的に対立していたのが長屋王(ながやおう)です。

長屋王は天武天皇の孫で、非常に有力な皇族でした。

 

藤原四子は光明子を皇后にしようとしましたが、長屋王はこれに反対

当時の皇后は天皇とともに政治を行う伝統があったので、藤原氏を警戒する長屋王が反対したのも無理はありません。

すると藤原四子は長屋王を罠にはめ、妻子ともに自殺へと追い込んでいます(長屋王の変)。

反対者がいなくなったため、光明子は立后(りっこう)して光明皇后となりました。

 

繰り返しますが、光明皇后は藤原氏出身

それまでは慣例として、皇族以外の人物が皇后になることはありませんでした。

よって光明皇后は皇族以外で初めて皇后になった人物なのです。

仏教に深く帰依

光明皇后は夫の聖武天皇同様、篤く仏教を信仰していたことでも有名です。

そこで皇后宮職(※2)に悲田院・施薬院という孤児や病人を救済するための施設をつくるなど、

仏教思想に基づいた社会事業に尽力しました。

※2 皇后の日常生活を支えるために設置された役所のこと。

関連記事 >>>> 「光明皇后がつくった悲田院・施薬院って?法華寺に残る浴室(からふろ)

 

また母親が亡くなった際には、藤原氏の氏寺である興福寺に西金堂を造立

阿修羅像をはじめとする八部衆の仏像をつくらせ、そこに収めました。

 

さらに聖武天皇の治世に出された国分寺建立の詔や大仏建立の詔も、光明皇后の勧めだったとされています。

そして聖武天皇と娘の阿倍内親王とともに、鑑真(※3)から授戒しました。

※3 がんじん/唐招提寺を開いたことでも有名な唐の僧。

関連記事 >>>> 「光明皇后が興福寺阿修羅像をつくらせたからあんなイケメンに?」

権勢をふるう

聖武天皇の譲位後、即位したのは娘・阿倍内親王、つまり孝謙天皇でした。

皇太后となった光明皇后は、すでにあった皇后宮職を改変して紫微中台(しびちゅうたい)を設置。

その長官には甥・藤原仲麻呂を据えます。

光明皇太后は実質的に国政を掌握し、聖武天皇(当時は太上天皇)が亡くなったあとも政界に大きな影響力を持ちました。

聖武天皇の死から四年後、皇太后は60歳でこの世を去りました。

 

光明皇后にまつわる伝説やエピソード

それでは上記で触れられなかった、光明皇后の伝説とエピソードについてご紹介します。

出身地はどこ? 光明池の由来

この記事の冒頭で、光明皇后の出身地は「?」とご紹介しました。

ただし伝説の上では、現在の大阪府和泉市の浄福寺で光明皇后は誕生したとされています。

下記の記事でご紹介した智海上人は、浄福寺を開いたと伝えられています。

関連記事 >>>> 「光明皇后の伝説を必要性とともに簡単に紹介!」

 

そんな言い伝えにちなんで「光明池」というため池が和泉市(※4)に造られましたが、

意外と新しく、昭和初期にできたものだそうですよ。

※4 堺市南区にもまたがっています。

夫は甥で幼馴染

記事の冒頭で、光明皇后は藤原不比等の子ということを紹介しました。

さらにと言いますか、聖武天皇の母親・宮子も藤原不比等の子なのです。

整理すると、まず不比等は文武天皇(聖武天皇の父)に娘を嫁がせ、

さらに聖武天皇にも別の娘(=光明皇后)を嫁がせたということです。

つまり、光明皇后と聖武天皇はおばと甥の関係だったということですね。

 

さらに光明皇后と聖武天皇は同い年(701年生まれ)です。

しかも二人は幼馴染で、不比等の館で一緒に育ったとする説もあるのだそう。

互い16歳で結婚し、その後40年間連れ添っています。

よくもまあ、嫌にならなかったと思いますね。笑

関連記事 >>>> 「光明皇后の家系図に登場する奈良時代を騒がせた女性たち」

 

きょうのまとめ

今回は光明皇后の生涯について、簡単にご紹介しました。

光明皇后とは?

① 長屋王の変をきっかけとして、人臣初の皇后になった

② 仏教を篤く信仰し、悲田院・施薬院の設置や興福寺西金堂の造立なども行った

③ 聖武天皇の死後も権勢をふるった

④ 伝説上の出身地は現在の大阪府和泉市となっている

⑤ 夫・聖武天皇とはおばと甥の関係であり、幼馴染でもあった

こちらのサイトでは他にも、奈良時代に活躍した人物についてわかりやすく書いています。

より理解を深めたい方は、ぜひお読みになってくださいね。

 










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