藤原不比等とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

藤原氏といえば中臣鎌足に始まり、戦前の近衛文麿まで日本の政治を支配してきたといっても過言ではない一族。

そんな一族の繁栄の基礎を築いたといわれているのが、

藤原不比等です。

それでは、藤原不比等とは一体どんな人物だったのでしょうか。

今回は古代史の最重要人物ともいえる、藤原不比等の生涯について紹介していきます。

 

藤原不比等はどんな人?

プロフィール
  • 出身地: ?
  • 生年月日: 659年
  • 死亡年月日: 720年8月3日(享年 62歳)
  • 中臣鎌足の次男で奈良時代の政治家。藤原氏繁栄の基盤をつくった人物。

 

藤原不比等 年表

年表

西暦(年齢)

659年(1歳)誕生

669年(11歳)父・中臣鎌足が死去し、「藤原」姓を賜る。

672年(14歳)壬申の乱でいとこ・中臣金が処刑される。

680年(22歳)長男・武智麻呂誕生

681年(23歳)次男・房前誕生

689年(31歳)直広肆(じきこうし)判事となる。

694年(36歳)三男・宇合誕生

695年(37歳)四男・麻呂誕生

697年(39歳)娘・宮子が文武天皇妃となる。

700年(42歳)大宝律令編纂開始

701年(43歳)大宝律令完成。娘・安宿媛(のちの光明皇后)誕生。

708年(50歳)右大臣となる。

710年(52歳)平城京遷都。興福寺建立。

718年(60歳)養老律令の編纂に着手する。

720年(62歳)死去

 

藤原不比等の生涯を簡単に紹介

藤原不比等は、中臣鎌足と車持国子(くるまもちのきみくにこ)の娘である、

与志古娘(よしこのいらつめ)の次男として誕生しました。

不比等は渡来系氏族・田辺史(たなべのふひと)の家で育ったことが、フヒトという名の由来といわれています。

下級役人からのスタートを余儀なくされる

中臣鎌足の子ですから、さぞ始めから優遇された人生であっただろう、と考えがちです。

しかし歴史に登場するのは意外と遅く、31歳の頃でした。

 

なぜなら中臣鎌足や天智天皇の死後に起きた壬申の乱で、多くの親族が処分されていたからです。

その頃の不比等はまだ幼かったため、何の処分も受けませんでしたが、

自身のキャリアとしては下級官人からスタートするしかなかったようです。

関連記事 >>>> 「藤原不比等の家系図からみる奈良時代の日本の政治」

娘二人を天皇に嫁がせる

不比等の後妻は、県犬養橘三千代(あがたいぬかいのたちばなのみちよ)といいます。

三千代が宮廷に力を持っていたこともあり、不比等は次第に政界で存在感を強めていきました。

 

先妻との子・宮子を文武天皇に嫁がせると、二人の間には首皇子(おびとのおうじ/のちの聖武天皇)が誕生します。

さらに三千代との子・光明子(のちの光明皇后)を首皇子に嫁がせました。

このように天皇家と婚姻関係を結ぶことで、不比等は専権的傾向を強めていったのです。

関連記事 >>>> 「天皇と結婚した藤原不比等二人の娘にまつわるエピソード」

藤原氏の実質的な祖

大宝律令の編纂平城京遷都などにも携わり、右大臣にまでのぼり詰めた(※1)藤原不比等。

そして養老律令の編纂に着手するものの、完成前に亡くなりました。

※1 没後には太政大臣正一位が贈られています。

関連記事 >>>> 「藤原不比等たちが制定した大宝律令ってどんなもの?」

しかし死後には、不比等の子たちが政権を握り、娘・光明子が聖武天皇の皇后になります。

その後も政界における藤原氏の力は大きく、昭和の近衛文麿(※2)まで日本の政治に影響力を持つ一族であり続けました。

藤原氏の繁栄の基礎をつくったのは、やはり藤原不比等であったといえるでしょう。

※2 大正・昭和期の政治家で、戦前までに三度首相を務めた人物。近衛家は藤原氏北家の流れをくむ五摂家の筆頭。

関連記事 >>>> 「藤原不比等の子どもたちが死んだのは長屋王の祟りだった?」

 

藤原不比等にまつわるエピソードや伝説

それでは上記ではご紹介しきれなかった、藤原不比等にまつわる逸話をご紹介していきますね。

天智天皇の御落胤?

歴史上の有名な人物によくありがちな、「○○天皇の御落胤(ごらくいん)」説。

藤原不比等は天智天皇の御落胤だったのではないか、とする説があります。

 

確かに、不比等の父・中臣鎌足の正妻は、元・中大兄皇子妃の鏡王女(かがみのおおきみ)でした。

さらに不比等の母親は与志古娘ではなく、この鏡王女であったとする説もあります。

だとしたら、その可能性はなくはないですね。

 

現在では、不比等が天智天皇の御落胤であった可能性は低いと考えられていますが、

平安時代まではかなり信憑性が高かったのだとか。

アイツが大出世したのには理由がある! と考えたくなるのが人間の性という気もします……。

『竹取物語』車持皇子のモデル

藤原不比等は、平安時代につくられた『竹取物語』の登場人物のモデルになったといわれているのです。

竹取物語といえば、かぐや姫が貴公子たちに求婚されますが、

そのうちの一人・車持皇子(くらもちのみこ)は不比等がモデルとされています。

上述しましたが、不比等の母は車持国子の娘でしたね。

 

蓬莱の玉の枝を持ってくるよう、無理難題を突き付けたかぐや姫。

これに対して車持皇子は偽物をつくって、嘘の冒険談を語ります。

結局は嘘と判明するのですが、そんな人物のモデルと言われているなんて……

平安時代の人にとって不比等はあまり良いイメージはなかったのかもしれません。

 

きょうのまとめ

今回は藤原不比等の生涯について、簡単にご紹介しました。

藤原不比等とは?

① 父は大化の改新で活躍した中臣鎌足だったが、壬申の乱の影響によって下級役人からスタートした

② 娘たちを文武天皇と聖武天皇にそれぞれ嫁がせることにより、力を強めた

③ 天智天皇の御落胤だったとする説があるが、可能性は低いと考えられている

④ 竹取物語の登場人物のモデルになったといわれている

こちらのサイトでは他にも、奈良時代に活躍した人物についてわかりやすく書いています。

より理解を深めたい方は、ぜひお読みになってくださいね。

 










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