吉備真備とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

学者でありながら政界でも大出世を果たした人物といえば、平安時代の菅原道真が有名ですよね。

いやいや、奈良時代の吉備真備だって負けてはいません。

菅原道真は左遷された地で亡くなりましたが、吉備真備は左遷されてもまた中央に戻ってきました。

それでは吉備真備とは、一体どんな人物だったのでしょうか。

 

吉備真備はどんな人?

プロフィール
  • 出身地: 備中国(現在の岡山県)
  • 生年月日: 695年(693年説もあり)
  • 死亡年月日: 775年10月2日(享年 81歳)
  • 吉備豪族出身の学者・政治家。唐に留学経験を持ち、帰国後は橘諸兄政権などで活躍した。

 

吉備真備 年表

年表

西暦(年齢)

695年(1歳)備中国に生まれる。

716年(22歳)遣唐留学生となる。

717年(23歳)入唐

735年(41歳)帰国

738年(44歳)橘諸兄(たちばなのもろえ)が右大臣となり、玄昉とともに重用される。

740年(46歳)藤原広嗣の乱

746年(52歳)吉備朝臣の姓を賜る。

750年(56歳)筑前守に左遷される。

751年(57歳)遣唐副使となる。

752年(58歳)遣唐副使として入唐。

754年(60歳)帰国。大宰大弐となり、九州へ。

756年(62歳)怡土城(いとじょう)の建設を開始する(768年完成)。

764年(70歳)造東大寺長官となる。藤原仲麻呂の乱が起こる。

766年(72歳)右大臣となる。

769年(75歳)刪定律令の編纂

771年(77歳)致仕

775年(81歳)死去

 

吉備真備の生涯簡単まとめ

吉備真備は、吉備の有力豪族・下道圀勝(しもつみちのくにかつ)の子として生まれました。

ですので元の名を下道真備といいます。

唐への留学

吉備真備といえば、唐への留学経験が有名です。

20代前半で入唐(にっとう)し、40代前半になって帰国しました。

18年間におよぶ唐への留学中、吉備真備は儒学や兵学などから音楽までを学んだといいます。

帰国時には経書(※1)や暦書といった書物、楽器・測量具などを献上しました。

※1 儒学の経典のこと。

関連記事 >>>> 「吉備真備の遣唐使時代のおもしろエピソードを紹介」

左遷と二度目の入唐

帰国後は玄昉(※2)とともに、橘諸兄政権を支えることになります。

二人を排除しようとする、藤原広嗣の乱も起こります。

その一方で吉備朝臣の姓を授かり、吉備真備は順調に出世していきました。

※2 げんぼう/吉備真備と同じ年に入唐した経験を持つ僧。

関連記事 >>>> 「吉備真備と玄昉をクビにして!藤原広嗣の乱とはどんな戦いだった?」

 

しかし藤原仲麻呂(※3)に疎(うと)まれると、筑前守に左遷。

翌年には遣唐副使として、再び入唐しています。

帰国すると大宰大弐(だざいのだいに)となり、九州に下りました。

在任中には、筑前国に怡土(いと)城の築城を開始しています。

※3 恵美押勝(えみのおしかつ)ともいう。

右大臣にまで大出世

その後、造東大寺長官に任命されますが帰京し、同年には藤原仲麻呂の乱が起こります。

吉備真備はこの時追討軍を指揮し、乱の鎮圧に貢献しました。

すると再び出世を重ね、右大臣に任命されることになります。

その後も删定(さんてい)律令の編纂などに尽力しますが、光仁天皇即位後に致仕(ちし)(※4)。

それから四年後に亡くなったと伝えられています。

※4 官職を辞めること。

 

吉備真備にまつわるエピソードや伝説

それでは上記ではご紹介しきれなかった、吉備真備にまつわる逸話を紹介していきますね。

カタカナをつくった?

カタカナをつくった人物は吉備真備、という説があります。

南北朝時代の書物『倭片仮字反切義解』(※5)にそう書かれている、というのがその根拠です。

※5 やまとかたかなはんせつぎげ/花山院長親(かざんいんながちか)の著

 

ですが近年では、カタカナは吉備真備が活躍した時代ではなく、

その後の平安時代の中期につくられたというのが定説になっているようですよ。

 

とはいえ、吉備真備ゆかりの岡山県真備町には、カタカナ発明の記念碑が建てられています。

たとえその説が正しくなくても、カタカナを発明したのは吉備真備に違いない!

と思わせるような、非常に優秀な人物だったということが伝わりますね。

陰陽道の祖だった?

陰陽道、陰陽師というと、最も有名なのは安倍晴明(あべのせいめい)ですよね。

安倍晴明の系譜をたどっていくと、なんと吉備真備に行き当たるという説があります。

また吉備真備がは唐から、陰陽道の聖典『金烏玉兎集』(きんうぎょくとしゅう)を持ち帰ったともいわれています。

さらに『今昔物語集』の中では、玄昉を殺した藤原広嗣の霊を陰陽道の奥義によって鎮めた、ということになっています。

 

さて、陰陽師というと怨霊が……式神が……というイメージが先行していますが、

実際には天文や暦、さらには疾病治療などの知識も有する、れっきとした国のお役人。

そこで吉備真備がそれらの知識をもたらしたということなら、何ら不思議はありません。

吉備真備が安倍晴明張りの術を使えたかは疑問ですけどね。

 

なお、陰陽道自体は仏教伝来の前後、日本にすでに入っていたとされていますよ。
 

安倍晴明の【完全版まとめ】記事はこちらをどうぞ。

関連記事 >>>> 「安倍晴明はどんな人物? 簡単に説明【完全版まとめ】」

 

きょうのまとめ

今回は、奈良時代に大出世を遂げた吉備真備の生涯について、簡単にご紹介しました。

吉備真備とは?

① 吉備の豪族出身で、唐へ18年間の留学経験がある

② 帰国後は主に中央政界で活躍し、右大臣にまで出世した

③ カタカナの発明者や陰陽道の祖ともいわれることがある

こちらのサイトでは他にも、奈良時代に活躍した人物についてわかりやすく書いています。

より理解を深めたい方は、ぜひお読みになってくださいね。

 










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