明智光秀は謎の多い武将です。
本能寺の変の動機もはっきりせず、何を考えていた武将なのかわかりにくい部分もあります。
一方、妻との仲は睦まじく、優しかったという逸話が多く残っています。
明智光秀が主役の「麒麟がくる」がはじまりますね。
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明智光秀の妻・煕子
光秀の正室となった女性は、明智氏の与力を経て重臣となった妻木氏の出身です。
妻木煕子、もしくは明智煕子ということで、ここでは煕子に統一します。
しかし、正しい名前はよくわかっておらず、「お牧の方」または「伏屋姫」とも呼ばれたという説もあります。
(*ややこしいですが「お牧の方」「伏屋姫」は光秀の側室たちの名だったという説もあります)
煕子と光秀に関する逸話① 結婚の決め手は容貌ではなく美しい心
煕子は、明智光秀に嫁ぐ直前に疱瘡(天然痘)にかかり、幸い命は助かりましたが、左の頬にその跡が残ってしまいました。
一説によると煕子の父親は、煕子自身の同意のもとに、彼女に姿が似ていた妹を代わりに明智光秀に嫁がせようとしました。
しかし、光秀はその女性が煕子ではないことを見抜きます。
そして本当の煕子を妻に申し受けたいとしたのです。
光秀はそう手紙に記して妻木家に送り、当初の予定通り煕子と結婚しました。
煕子はその言葉に感動し、生涯光秀と添い遂げることを心に決め、夫婦仲良く暮したそうです。
(実は、別人の似た逸話が他にもあります。どうやら後世の創作である可能性が高いのですが、光秀と煕子の夫婦仲がよかったことは本当だったと考えられています)
煕子と光秀に関する逸話② 妻を背負って逃げた光秀
1556年、明智城が斎藤義龍によって攻撃されました。
その時、煕子は子供を身ごもっていました。
光秀が、そんな妻を自ら背負って越前の朝倉氏のところまで逃れたという話も残っています。
煕子と光秀に関する逸話③ 煕子の内助の功
1556年、斎藤義龍との戦に敗れた光秀は、美濃から越前(現福井県)に逃れ、仕官先も見つからないまま貧しい暮らしをしていました。
そんな時、越前朝倉家の家臣との連歌会を催す機会がありました。
教養のある光秀にとっては、仕官のためのまたとないチャンスです。
しかし、彼には武将を集めて連歌の宴を開くほどの金がないのです。
すると妻・煕子はどこからともなく資金を用意してきました。
そして、客人に対して恥ずかしくないもてなしで、宴会を大成功させたのです。
実は、煕子は自分の黒髪を売って宴会のための資金を調達したのでした。
おかげで朝倉家の仕官がかなった光秀は、妻に深く感謝し、「たとえ天下を取ったとしても、妾は持たぬ」と語ったそうです。
(この逸話に関しても、史実である確証はありません。また、光秀に側室があったとする見方もあります)
煕子と光秀に関する逸話④ 松尾芭蕉が慕った煕子の優しさ
『奥の細道』で知られる俳人・松尾芭蕉は、先人の行いや人物像に心を寄せる人情家でも知られています。
ある時、芭蕉が伊勢国に住む弟子の又玄を訪ねました。
貧しいながらも又玄夫婦の温かいもてなしを受けた芭蕉は、光秀の妻の煕子が黒髪を売って夫の面目を保った話を例に、彼の気持ちをとびきり優しい一句にしました。
「月さびよ 明智が妻の咄せん」
(この寂しく澄み輝く月明かりの元で、明智光秀の妻の昔話をしてあげましょう。あなたの心がけはきっと報われる日が来ますから)
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明智光秀の子供たち
光秀の子女の数については俗説も多く、正確なところがわかっていない状況です。
一説には、実在が確認されている長男光慶を含めた3人の息子と、細川忠興の妻となった細川ガラシャ(三女)を含める4人の娘がいたとされています。
ここで注目は、ポルトガル人宣教師のルイス・フロイスによるその子供たちへの評価です。
フロイスは彼らを「非常に美しく優雅で、ヨーロッパの王族をおもわせるようであった」と伝えています。
実は、フロイスは別の記述の中で、光秀の性格については非常に辛辣な評価をしている人物です。
その彼をしてこの子女たちへの高評価は、彼の率直な意見かもしれません。
妻を大切にし、連歌や茶の湯などを嗜む教養人だったと言われる光秀と、夫思いの妻煕子に育てられた子供たちが、育ちの良い気品ある子女だったことには納得です。
煕子の死・墓所
織田信長の元で活躍していた明智光秀ですが、1575年の第一次・黒井城の戦いで赤井氏に大敗をしてしまいました。
すると、それまでの疲れもあって、彼は死の境をさまようほどの病に陥っています。
しかし、煕子の献身的な看病もあって命を取り留めることができました。
すると、今度は煕子が病気になってしまったのです。
彼女の場合は、看病や祈祷の甲斐無く1576年11月7日に亡くなってしまいました。
煕子の墓は、大津市坂本にある西教寺にあります。
当寺院は、天台系仏教の一派、天台真盛宗の総本山です。
夫・明智光秀をはじめとする明智一族と妻木家の菩提寺となる寺院の一角で、今も煕子は眠っています。
【煕子の墓所・西教寺:滋賀県大津市坂本5-13-1】
きょうのまとめ
今回は明智光秀とその妻煕子についての逸話を中心にご紹介しました。
人物像のはっきりしない光秀ですから、夫婦の逸話も史実ではない可能性が高いです。
しかし、これほど夫婦愛を示す多くの逸話があったことから、きっと仲の良い夫婦だったと考えられています。
簡単なまとめ
① 明智光秀と妻の煕子はとても仲の良い夫婦であったことは、多くの逸話に示される
② 光秀と煕子の子供たちは、品の良い子女に育ったと言われる
③ 光秀の看病疲れで病に倒れた煕子の墓は、没後に明智一族の菩提寺・西教寺にある
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