与謝蕪村とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

「春の海 終日ひねもすのたり のたりかな」

温かな気候の中、穏やかな海をボーっと眺めているような、そんな光景が浮かんでくる句ですね。

こちらは江戸時代中期の俳人・与謝蕪村よさぶそんの一句。

蕪村は情景が浮かび上がってくるような、絵画のような句を詠むことで知られています。

それもそのはず、彼は俳人だけでなく、画家としても多岐に渡る作品を残し、多くの人を魅了してきた人物です。

文学と芸術の二分野で功績を残した、いかにも才人といった蕪村ですが、その才能はいかにして磨かれていったのでしょうか。

与謝蕪村はいったいどんな人物だったのか。今回はその生涯を辿っていきましょう。

 

与謝蕪村はどんな人?

プロフィール
与謝蕪村

与謝蕪村
出典:Wikipedia

  • 出身地:摂津国東成郡毛馬村せっつのくにひがしなりぐんけまむら(現在の大阪市都島区毛馬町)
  • 生年月日:1716年
  • 死亡年月日:1783年12月25日(享年68歳)
  • 江戸時代中期の俳人・画家。俳句と絵画を織り交ぜた俳画の創始者でもあり、松尾芭蕉・小林一茶に並ぶ俳諧の巨匠に数えられる。

 

与謝蕪村 年表

年表

西暦(年齢)

1716年(1歳)摂津国東成郡毛馬村せっつのくにひがしなりぐんけまむらに生まれる。

1732年(17歳)父母を失い、故郷を去る。

1735年(20歳)江戸にて早野巴人はやのはじんに師事し、俳諧を学ぶ。

1742年(27歳)師・巴人が死没し、江戸を去る。このころから同門の俳人を訪ねたり、松尾芭蕉ゆかりの地を巡って北関東・東北を放浪。

1751年(36歳)京都に移住。寺院に保管されている古典絵画などに触れて学びを深めていく。

1754年(39歳)母の故郷でもあった丹後与謝に移り、浄土寺院・見性寺けんしょうじに住む。画家として制作に没頭し「方士球不死薬図屏風ほうしぐふしやくずびょうぶ」もこのころに描いた。

1757年(42歳)京都へ戻り、このころから与謝の性を名乗るようになる。

1760年(45歳)結婚し、一人娘のくのを儲ける。

1766年(51歳)このころから単身、四国・讃岐と京都を行き来するように。讃岐には「蘇鉄図屏風そてつずびょうぶ」などの作品を残す。

1770年(55歳)師・巴人が名乗っていた夜半亭の二世を受け継ぐ。

1783年(68歳)心筋梗塞により、京都にてその生涯を終える。

 

与謝蕪村の生涯

波乱の中、俳人・画家としての素養を高めていく青年期

与謝蕪村の才能がどのような人生で磨かれていったかというと、一言で言って波乱万丈です。

彼の幼少期の記録はほとんど残っていませんが、なんでも10代半ばで両親を失い、故郷を後にしたとのこと。

現代でいえば高校生の年ごろですから、孤独の身となった逆境を跳ね除けるように、江戸を目指したことには感心させられます。

社会の右も左もわからないような歳で一人、身を立てていかなければならないというのは、きっと蕪村のような偉人であっても心細いことだったでしょう。

そんな彼は20歳のころ、夜半亭・早野巴人やはんてい・はやのはじんに弟子入りし、俳諧を学び始めます。巴人は『奥の細道』で有名な松尾芭蕉の孫弟子。

彼に俳諧を学べることは、蕪村にとっては願ってもないチャンスだったといえます。

しかし巴人は1742年、蕪村が27歳のころに亡くなってしまいました。

両親といい師匠といい、蕪村は若くして身近な人物の死に多く直面しています。

多感な青年にとっては、いずれも相当にインパクトの強い出来事だったと想像出来ますね。

彼は、「もう江戸で学ぶことはない」と思ったのか、はたまた「人はいつ死ぬかわからないのだから」などと思ったのか…

このころから同門の俳人を訪ねたり、憧れの松尾芭蕉ゆかりの地を巡ったり、北関東から東北にかけて放浪の旅に出ます。

その期間は実に約10年。これまた思い切った行動に出たものだと思わされますが、この経験が後の彼の作品に影響を及ぼしていることは間違いないでしょう。

なんでも、幼いころから絵を描くのが得意だった蕪村は、宿代の代わりに店主に絵を渡して旅をしていたとのこと。

現代では海外でストリートパフォーマンスをして旅をする人などもいます。

そんな旅芸人とどこか重なる部分がありますね。

才能を発揮していく晩年…俳画という新ジャンルの開拓も

1751年に放浪の旅を終えた蕪村は、その後京都や、母親の故郷である丹後与謝などで、絵画の勉強や制作に没頭していきます。

なんでも「与謝」という性は、母親の故郷から取ったという説も。

早くから両親を亡くしている彼は、与謝を自分の名前にすることで心の拠り所にしていたのでは…などと妄想が浮かんできます。

ちなみに丹後の施薬寺に収められている「方士求不死薬図屏風ほうしぐふしやくずびょうぶ」という絵画は、このころに作られたものです。

その後45歳で結婚すると子宝にも恵まれ、画家・俳人としては京都と四国の讃岐を行き来しながら精力的に活動。

55歳を迎えた1770年には、師・巴人が名乗っていた夜半亭の名を受け継ぎ、夜半亭二世を名乗るようになります。

このころの作品としては、重要文化財にも指定される「奥の細道図屏風」などが有名です。

これはお察しの通り、松尾芭蕉の奥の細道の原文を書写し、そこに絵画を入れたもの。

そう、蕪村は俳人・画家というキャリアを駆使し、俳画という新ジャンルを生み出した人でもあるのです。

若き日の旅で得た感性や、修行の日々が晩年になって実を結んだといえますね。

 

蕪村が評価されたのはずっと後の話

多くの俳諧・絵画作品を残した蕪村は、松尾芭蕉の孫弟子から夜半亭の名を受け継ぐなどの功績もあり、当時からかなり注目されたのでは…と思わされます。

しかし実は、蕪村の作品が世間から評価されるのは、彼が亡くなってからずっと後の話でした。

当時はそれこそ、彼が憧れた松尾芭蕉の存在があまりに大きく、その他の俳人の影は薄くなってしまっていたのです。

そんな蕪村の存在を世に知らしめたのは、明治期の俳人・正岡子規まさおかしきでした。

彼が晩年の明治29年に残した『俳人蕪村』という書物によって、蕪村はようやく認知されていくのです。

蕪村が亡くなったのが1783年、俳人蕪村が書かれたのが1896年と、およそ100年以上のときが経っています。

天国の蕪村も「え! 今さら評価してくれるの?」といった感じだったのではないでしょうか…。

その後、昭和の時代には詩人の萩原朔太郎も蕪村のことを取り上げた作品を出しており、その人気は徐々に熱を帯びていくことになります。

今となっては松尾芭蕉と並ぶほどの巨匠とされていますから、蕪村も浮かばれるというものです。

 

きょうのまとめ

俳人・画家という二足のわらじで活躍した与謝蕪村の生涯は、若くして両親を亡くすなど、決して平坦な道ではありませんでした。

しかし彼はその逆境を糧に変え、多くの経験に身を投じることで、晩年に向けてその才能を開花させていきます。

最後に今回の内容を簡単にまとめておきましょう。

① 与謝蕪村は両親や師匠を若くして亡くす、波乱万丈の少年~青年期を過ごした

② 10年に渡って北関東・東北を放浪し、感性を磨いていった

③ 晩年は師匠から夜半亭の名を受け継ぎ、俳画という新ジャンルの開拓など、精力的な活動を展開した

蕪村の生き様から学べることは「経験こそが何よりの財産になる」ということでしょう。

彼は自身の境遇や、自ら見て回ったさまざまな世界観を才能に昇華させました。

彼にならって自分のやりたいことにどんどん挑戦していけば、いずれは何かの形で実を結ぶものなのでしょうね。

 

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