明智光秀 本能寺の変の動機、そしてその真実とは?

 

天正10年(1582年)6月2日、

明智光秀は織田信長を本能寺で滅ぼしました。

これが戦国史上最も有名な「本能寺の変」ですが、

なぜ光秀は信長を裏切ったのでしょうか?

背後に黒幕が存在し、光秀を操っていたのではないかという謀略説や

光秀の信長に対する恨みが積み重なって起きた怨恨説など

20以上にも及ぶ様々な説が現在語られていますが、

それは現在に至るまで光秀が信長を裏切った理由がはっきりとわかっていないためです。

光秀が本能寺の変を起こした動機の真実とはいったい何なのでしょうか?

どうぞ最後までお読みになってください。

(2017年9月)明智光秀の直筆の手紙が見つかる。本能寺の変その黒幕は!?
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明智光秀が主役の「麒麟がくる」がはじまりますね。
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本能寺の変の真実とは

史料から見る本能寺の変

「本城惣右衛門覚書」という史料が現在、天理図書館に所蔵されています。

これは本城惣右衛門ほんじょうそうえもんという老人が、

自らが20〜30代だった頃の回想録を一族に宛てて記したものと言われています。

実はこの覚書には、彼が本能寺の変に明智軍の兵士として参戦した時の記憶が綴られているのです。

この覚書は本能寺の変に関わった人物が残したただ一つの史料であり、大変貴重なものです。

主な内容は以下の通りです。

・従軍中、光秀は羽柴秀吉の援軍として備中(岡山県)に向かうことになっていたが、京都に向かうと命じた

・兵士たちは徳川家康が京に来ていたので、当初は家康を討ちに行くものだと思っていた

・本能寺という場所も全く知らなかった

・本能寺の中に入り、白い着物を着ていた女を1人捕らえた。女は「上様は白い着物を召されている。」と言ったが、それが信長のことだとは思わなかった

この内容から読み取ると、明智軍の兵士は誰を討ちに行くのか、戦いが始まってからも標的は誰なのか一切知らされていなかったことになります。

光秀は謀反を知らされないために下々の兵士たちには、一切敵が誰なのかを明かさなかったのです。

「信長公記」や「信長記」、「川角太閤記」には、光秀が五人の重臣に6月1日の夜になって初めて謀反の意を明かしたと記されています。

光秀は直前になるまで誰にも明かさずに、信頼できる家臣を見極めながらたった一人で計画を練っていたのではないでしょうか。

細川家への手紙からわかる光秀の単独犯行の根拠

光秀は本能寺で信長を討ってから、様々な武将に自らの軍勢に加わるよう勧誘の手紙を送っています。

6月9日に細川家へ送られた手紙には以下の内容が書かれています。

・あなた方親子(細川藤孝、忠興)が元結いを切って出家したことはよく考えれば仕方のないことだ。この上はそちらの重臣を派遣して協力をお願いしたい。

・領国については摂津(大阪府北部、兵庫県南東部)を差し上げようと考えている。但馬(兵庫県北部)や若狭(福井県南部)をお望みならばそれでも構わない。他の者と取り合いになっても必ずあなた方に差し上げる。

・謀反を起こしたのは忠興などを取り立てるためであり、他の考えからではない。

細川藤孝はかつて光秀と共に「足利義昭の上洛を助けたことがある」光秀と関係が深い武将です。

その息子の忠興は光秀の娘婿であったため、光秀は細川家に対して破格の待遇でこの手紙を送っています。

しかし誰が味方で誰が敵かもわからない当時の状況の中で、細川親子は「信長を弔うため」と剃髪して隠居し、光秀の軍勢に加わることはありませんでした。

光秀が切実に味方を増やしたかったことが、この内容から容易に読み取ることができます。

もし光秀が誰かと共に謀略で信長を討ったのならば、この手紙に仲間の援軍が来るということを書いてもよさそうなものです。

自らの立場が危うくなることを懸念して犯行に及んだのか?

天正3年(1575年)、土佐(高知県)の長宗我部元親が阿波(徳島県)に侵攻しました。

その際に信長は、「四国は元親の手柄次第」という朱印状を発行しました。

しかし、その後元親が四国での勢力を広げていくと信長は前言を撤回

天正9年(1581年)に四国での元親の領土は、土佐・阿波の二国のみで他の領土は返還するよう命じました。

元親はその頃には伊予(愛媛県)と讃岐(香川県)の大半を自力で攻略していたためにこの命令を拒否します。

信長は命令に背いた元親を制圧するために、三男の神戸信孝かんべのぶたかを総大将にした14000の軍勢を四国へと出陣させる予定でした。

・この二者の外交の取次ぎ役をしていたのが光秀であり、光秀はこの外交の決裂で立場をなくす

・光秀重臣の斎藤利三の義妹が元親の正室であったこと

・四国遠征に自分が選ばれず、ライバルの丹羽長秀が副将に選ばれたこと

・さらに羽柴秀吉と関係が深い三好康長が四国遠征軍の先手に選ばれたこと

などによって、織田家での自らの地位が揺らぐことを恐れて謀反を起こしたのではないか?

との説が濃厚です。

実際に本能寺の変は四国攻めが始まる当日、6月2日の朝に起きており、結果四国攻めは中止となっています。

 

きょうのまとめ

光秀が起こした本能寺の変、上記で挙げた内容も数ある中の一説に過ぎません。

しかし、史料から読み取る上で充分に信憑性のある説ではないでしょうか。

「兼見卿記」を著した神道家の吉田兼見は、6月7日に安土城で光秀と会った際に光秀から「謀反の存分」を聞かされたと日記に記しています。

いったい、光秀が吉田兼見に話した謀反の理由とは何だったのでしょうか。

その内容は伝わっておらず真相は闇の中です。

明智光秀については他にも様々な記事を書いています。

興味がある方はどうぞご覧になってください。

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