築城上手な明智光秀の城めぐり

 

ポルトガル人宣教師のルイス・フロイスは、明智光秀のことを

「築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主」

と評しています。

光秀は多くの城作りに関わりました。

城を追っていくと、そこに重なる光秀の人生が見えてきます。

 

光秀誕生の城?

明智光秀は謎の多い武将で、その出生についても謎です。

生地はおそらく美濃国(岐阜県南部)内と考えられますが、彼が誕生した城にも諸説あるのです。

明智城

光秀誕生の城として知られます。

1556年に斎藤義龍に攻められて落城するまで、約30年をこの城で過ごしたそうです。

落城した城は再興されることはありませんでした。

<岐阜県可児市瀬田長山>

明知城

平安から鎌倉期の武将・遠山景朝の居城でした。

ここも光秀生誕の城と言われますが、確証はありません

美濃国と信濃国の国境に位置しており、織田氏と武田氏の間の争奪戦の戦火にさらされることが多かった城です。

<岐阜県恵那市明智町城山>

 

光秀の名城の地、近江

明智光秀には近江出身説もあります。

織田信長の元で有能を誇った光秀は、近江国内の城を任され、築城に腕をふるいました。

特に琵琶湖のほとりで華やかにそびえた坂本城は、信長の安土城に続くナンバー2を誇る名城だったのです。

宇佐山城

織田信長の命令により、1570年に森可成もりよしなりが築城した琵琶湖に面する山城です。

「信長の当時の本拠地である岐阜城と、京都とを結ぶ経路の防御」を意図として作られました。

可成は同年の「宇佐山城の戦い」で落命しましたが、城は守られました。

光秀は1571年の信長による比叡山焼き討ち前に、土豪の懐柔のために入城しています。

光秀が坂本城を築城してそちらに移ると、宇佐山城は廃城となりました。

<滋賀県大津市南滋賀町>

坂本城

光秀が居城として1571年に築いた城です。

比叡山焼き討ちの戦功で信長に与えられた土地に築いたこの城は、「延暦寺の監視」「琵琶湖の制海権」の獲得を目的としました。

ルイス・フロイスが著書『日本史』で、

「明智の築いた城は、豪壮華麗で信長の安土城に次ぐ城である」

と記すほどの素晴らしい城だったようです。

安土城よりも先に天守が作られたというこの城には、瓦が用いられ、そして琵琶湖から船で乗り入れる事もできました。

しかし、天守は1582年の山﨑の戦い後に焼失。

のち丹羽長秀により再建されますが、大津城の新築の際に取り壊され、建材は全て大津城に再利用されてほとんど遺構が残っていません。

光秀は山﨑の合戦で敗走し、落ち武者狩りにあって命を落としました。

その時彼が目指していた城こそ、彼の居城であり名城だった坂本城だったのです。

<滋賀県大津市下阪本3-1>

 

丹波制圧で活躍した機能の城

1575年頃から信長に丹波攻略を命じられた明智光秀は、この地にも多くの足跡を残しています。

亀山城

光秀が「丹波統治の拠点」として築いた城です。

1582年の本能寺の変の際に、光秀はこの城から出陣しました。

山陰道の入り口という要衝にあったこの城は、のち豊臣秀吉や徳川家康も重要拠点として活用した城です。

明治維新後に宗教団体の所有となり、政治との関係が問題視されると、1936年には大日本帝国政府が城を破壊。

戦後に再建されました。

<京都府亀岡市荒塚町内丸1>

金山城

光秀による築城です。

「八上城の波多野秀治と黒井城の赤井氏との連係を分断」する目的で築かれました。

現在金山きんざん城には土塁や石垣が一部残るのみです。

<兵庫県丹波市柏原町上小倉>

黒井城

標高356mの猪口山の頂上から周囲8kmに及ぶ巨大な要塞のような山城です。

猛将・赤井直正の居城でした。

1575年、総大将の光秀が「丹波攻略のために苦戦を強いられた城」です。

第一次黒井城の戦いで失敗した光秀は、1579年の第二次黒井城の戦いを慎重に攻め、黒井城を落城させました。

その後彼の家臣である斎藤利三としみつが城主となっています。

約250年存続した城ですが、廃城となりました。

<兵庫県丹波市春日町黒井2263>

福知山城

1579年頃、光秀が丹波国平定に成功して、「丹波の拠点として築城」したと言われます。

光秀の重臣であり、娘婿である明智秀満が城主となりました。

山﨑の戦いの時に、城の留守居役だった秀満の父親が処刑されましたが、城自体は1873年の廃城令により解体されるまで存続していました。

天守は1985年に復元され、今も墓石や仏塔、灯籠などを転用したのがわかる石垣が残っています。

光秀が関わった城がほぼ全て現存しない中、唯一この城だけが残っています。

<京都府福知山市内記5>

周山城

この城も「丹波平定」を目的に、光秀が築いた城です。

本丸を中心に東西南北に曲輪が造成されており、山全体が城ともいえる形状でした。

現存する石垣から、壮大な石垣を持つ城だったことが想像できますが、山﨑の戦い後に破壊されてしまいました。

<京都府京都市右京区京北周山町>

 

敗走する明智光秀の最後の姿を見た城

豊臣秀吉

明智光秀にとって楽しい思い出と悲しくつらい思い出の混じった城です。

勝龍寺城

西国街道と久我畷こがなわてが交差する交通の要衝にあった城です。

1571年に信長から与えられ、細川藤孝の居城となりました。

1578年には細川忠興と光秀の娘であるガラシャ夫妻が盛大な結婚式を挙げ、新婚時代を過ごしています。

細川藤孝が1581年に丹後へ入封後、村井貞勝の家臣が城主となりましたが、本能寺の変後に光秀の属城となりました。

「山﨑の合戦で、光秀が本陣を構えた城」です。

しかし、戦いに敗れた光秀は、この勝龍寺しょうりゅうじ城に一度戻り、羽柴秀吉の追撃を逃れようと坂本城へと逃走する途中で亡くなっています。

1649年に廃城となりましたが、現在では勝龍寺城公園として整備されています。

<京都府長岡京市勝竜寺13-1>

 

きょうのまとめ

今回は、明智光秀が関わった城をご紹介しました。

簡単なまとめ

① 明智光秀の居城として知られ、最も豪壮華麗な城は坂本城だった

② 光秀の城で唯一現存するのは、福知山城である

③ 死の直前の光秀が過ごした城は、娘が結婚式を挙げたこともある勝龍寺城だった

有能武将として活躍した光秀だからこそ多くの城に関わりましたが、彼のほとんどの城は現存しません。

出世の証しとして雄大な城を構えることは武将の夢であり誇りです。

しかし、光秀が描いたほとんどの城の雄姿は、今はもうわずかに残された石垣や土塁から想像するしかありません。

明智光秀の年表を含む【完全版まとめ】記事はこちらをどうぞ。
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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku 明石 白(akashihaku)Facebook https://www.facebook.com/akashihaku