征夷大将軍・坂上田村麻呂は、東北に二つの城柵を築いています。
立て続けにつくったものですから、どっちがどっちかわからなくなるんですよね。
そもそも城柵ってイメージが湧きにくいですし……。
そこで今回は坂上田村麻呂が築いた二つの城柵の特徴を、それぞれ超簡単にご紹介します。
タップでお好きな項目へ:目次
坂上田村麻呂が築いた二つの城柵について
坂上田村麻呂は胆沢城と志波城という、二つの城柵を築いています。
そもそも城柵とは?
城柵とは、古代の東北地方における、蝦夷からの防御施設のことです。
古代の朝廷は、7世紀後半から城柵を築き始めます。
城柵には中央から役人が派遣され、そこを守るための鎮兵が置かれました。
さらに周辺を開墾させるために移住させられた、柵戸と呼ばれる人びともいたのです。
特に大きな城柵は、現在の多賀城市に置かれていた多賀城です。
多賀城は724年に大野東人が築いたとされ、陸奥国府と鎮守府(蝦夷征討のために設けられた役所のこと。)が置かれていました。
城柵とは単なる軍事拠点であるばかりか、行政施設としても機能していたということですね。
150年間古代東北経営の拠点となった「胆沢城」
802年、坂上田村麻呂は現在の岩手県奥州市に胆沢城を築きました。
阿弖流為(アテルイ)の降伏前後に、築城が始まったといわれています。
また正確な年は不明(808年?)ですが、鎮守府も多賀城から胆沢城へと移しています。
その後胆沢城はおよそ150年間、古代東北支配の中心となりました。
寿命10年だった「志波城」
胆沢城築城の翌年(803)、坂上田村麻呂はさらに志波城を築いています。
志波城は現在の岩手県盛岡市にあったので、胆沢城からさらに北上したことになります。
まさに最北端の城柵でした。
811年、文室綿麻呂を征夷将軍とした戦いは、志波城を拠点として行われています。
ですが、水害のために新たに徳丹城(現在の岩手県矢巾町)が築かれることになり、
およそ10年でその役割を終えました。
新しい徳丹城は、志波城を解体してつくったそうですよ。
きょうのまとめ
坂上田村麻呂が築いた胆沢城と志波城の特徴などについて、簡単にご紹介しました。
② 胆沢城には鎮守府が置かれ、その後150年間東北経営の拠点となった
③ 最北端の城柵・志波城は水害によって10年で廃城となった
こちらのサイトでは他にも、坂上田村麻呂にまつわる記事をわかりやすく書いています。
より理解を深めたい方は、ぜひお読みになってくださいね。
その他の人物はこちら
奈良時代に活躍した歴史上の人物
関連記事 >>>> 「【奈良時代】に活躍したその他の歴史上の人物はこちらをどうぞ。」
時代別 歴史上の人物
関連記事 >>>> 「【時代別】歴史上の人物はこちらをどうぞ。」
コメントを残す