エリーザベトとはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

身長172cm、ウエストは生涯51cmとモデルのようなスタイル。

絶世の美女と呼ばれたエリーザベト

名門ハプスブルク家の若き皇帝「フランツ・ヨーゼフ1世」に見初められ、

オーストリアとハンガリー王国の皇妃となった人物です。

現在もウィーンやブタペストに行けば、人気者の彼女とあらゆる場所で出会うことができます。

エリーザベトとはどんな人物だったのでしょうか?

 

皇妃エリーザベトはどんな人?

プロフィール
エリーザベト

(Wikipediaより)

  • 出身地:バイエルン王国ミュンヘン(現ドイツミュンヘン)
  • 生年月日:1137年12月24日
  • 死亡年月日:1898年9月10日(享年 60歳)
  • 美と旅に生きた悲劇の皇妃

 

エリーザベト 年表

年表

西暦(年齢)

1837年(0歳)ミュンヘンでヴィッテルスバッハ公爵家の次女として生まれる。

1848年(10歳)オーストリア皇太子のフランツ・ヨーゼフと初対面。この時は、ヨーゼフの弟カール・ルートヴィヒに見初められるが、幼い二人の遠距離恋愛は成就せず。

1853年(15歳)姉の見合いに付き添い、皇太子ヨーゼフに見初められ婚約。妃教育が始まる。

1854年(16歳)結婚。オーストリア皇妃となる。

1855年(17歳)長女を出産、姑ゾフィ―に奪われる。翌年次女も誕生。

1857年(19歳)ハンガリー訪問中に長女が亡くなる。

1858年(20歳)長男ルドルフ誕生。

1860年(22歳)姑との確執と夫の浮気などでうつ状態から結核を患う。静養のためマディラ島に旅にでる。

1867年(29歳)エリーザベトの活躍もあり、オーストリアとハンガリーの二重王国が成立。ハンガリーで人気の皇妃となる。

1872年(34歳)姑ゾフィが他界する。

1889年(51歳)長男ルドルフが、愛人と心中により死亡。

1898年(60歳)ジュネーヴで無政府主義者によって暗殺される。

 

幸福な少女時代

バイエルン公爵のマクシミリアンと

バイエルン王女ルドヴィカの次女として生まれた

エリーザベト

クリスマスイヴに生まれ、「幸福の歯」と伝わる一本の小さな歯が生えており、誕生を喜んだ人々は「幸福な人生を歩むだろう」と噂しました。

王家の血筋ではない父は公職についておらず、堅苦しい貴族社会のしきたりとは無縁の自由奔放な日々。自由人の父の影響を受けたエリーザベトは、お転婆娘に成長し家庭教師も頭を抱えるほどの活発な子でした。

天性の愛嬌ある笑顔は、行儀の悪さ勉強嫌いという貴族らしからぬ行動をカバーするのに十分。

乗馬は得意中の得意でした。

 

皇帝の花嫁となる

皇妃の座を射止めたエリーザベト

母のルドヴィカはバイエルン家の出身で、姉妹は皆王室に嫁ぎました。

彼女だけは公爵家というコンプレックスから、娘たちには輝かしい嫁ぎ先を見つけようと躍起になっていました。

そんな中、長女ヘレンと母の姉ゾフィの息子でオーストリア皇太子フランツ・ヨーゼフのお見合いに、お転婆を卒業し花嫁修業を始めるチャンスと母はエリーザベトも同行させました。

皇太子ヨーゼフがお気に召したのは、エリーザベト。

母ゾフィに逆らったことのない彼が、

「彼女と結婚できないのなら、一生結婚しない」

と言い放つほど惚れこんでいたとか。

ゾフィはヨーゼフに根負け。

「オーストリアには友好国のバイエルンの結びつきが大切」と結婚を許しました。

エリーザベトは、

「結婚というものは不合理な制度。15歳の子が身売り同然に嫁がされる。」

と後に述べています。

婚約当時はマリッジブルーになったものの、まんざらでもなかったようです。

いよいよ出発の時

1853年4月20日に、2泊3日の日程でウィーンへ向けて出発します。

ドナウ川を船で下ってウィーンに向かいます。

もちろん、ドナウ川は通行止め。

乗り継ぎ地では祝賀式が行われ、歓迎ムードで沸き上がりました。

オーストリアのリンツでは、ヨーゼフは待ちきれなく、お忍びで出迎えに来る程のエリーザベトに夢中だったとか。

1853年4月24日に、23歳のヨーゼフと16歳のエリーザベトは、ウィーンのアウグスティーナ教会で結婚式をあげました。

孤独な若き皇妃と姑との確執

しかし自由奔放に育てられ妃教育もほとんど受けていない、エリーザベトは堅苦しい宮殿生活にすぐに挫折しました。

何度もヒステリックを起こしましたが、叔母で姑のゾフィは全く味方になってくれません。

それどころか、口うるさく何事にも干渉する始末。

エリーザベトが嫁いだのは広大な帝国だったんですもの仕方ないですよね。

最初は従順なエリーザベトでしたが、ゾフィの妃教育は周りの雰囲気も劣悪にするほど厳しかったのです。

皇太子ルドルフを産みますが、ゾフィに取り上げられ育てることができません。

皇妃としての要求には応えるよう努力しますが、不十分というレッテルを張られました。

子供に会うこともままならない毎日でした。

逃げるように旅にでるエリーザベト

そんな中、ヨーゼフの浮気の噂が広まり、エリーザベトは帝国領から脱出しマディラ島へと逃げるように旅にでました。

この時既にうつ病だったとの説もありますが、公式には結核と発表されています。

生活費を与えられ旅するエリーザベトは、2年間も外国暮らしを楽しみました。

この時に、自分が美しくそれが武器になると自覚した彼女は自信を取り戻し、自己中心的でわがままな性格に変貌。

メディアなどの影響で、妖精のように美しいオーストラリア皇妃と評判となり、世界中に広まりました。

美しくなくてはならないと思いこんだエリーザベトは、夫や子供を始め周りのことは気にも留めず、時間の全てを自分自身のために使いました。

子供を姑にとられ、夫は浮気とくれば、そうなるのも仕方がないと…。

 

息子を愛することを許されなかったエリーザベト

母の愛

ゾフィに取り上げられた皇太子を、母の愛で包んだこともありました。

体の弱い皇太子に健康を害するほどの、軍隊式の厳しいしつけや運動、教育をしたゾフィから息子を救ったのです。

母の愛情を知らない皇太子をしっかりと抱きしめ、彼が好きな家庭教師に教育を任せるように進言し勝利しました。

息子の死

性格はもちろん知性や感性まで、皇太子のルドルフはエリーザベトに似ていました。

皇太子でありながら、反貴族主義や反聖職者主義に肩入れした上に、薬物に手を出し精神に異常をきたしました。

その時も、エリーザベトは、唯一自分の元にいる末娘のマリー・ヴァレリーを育てることに夢中でした。

素行が不安視され結婚生活も上手く行かないルドルフを、やっとエリーザベトが見舞った時には束の間の親子関係を取り戻しました。

これから夫婦関係も上手く行くだろうと安堵した時に、ルドルフと愛人が拳銃で頭を撃ち抜き心中したという訃報が入りました。

これには、エリーザベトも、

「もっと愛情を注いでやればよかった」

と罪悪感に打ちひしがれ、二度とこの死から立ち直れませんでした。

エリーザベトは、この日から生涯喪服で暮らしています。

 

オーストリアとハンガリーの二重王国成立に関する功績

ハンガリー贔屓のエリーザベト

エリーザベトの妃教育をした人物は、ハンガリーのマジャル人でした。

確執のあった姑ゾフィはハンガリー人が大嫌い。

ウィーン宮廷に対する反発もあり、自ずとエリーザベトはハンガリーに興味をもちました。

寸暇を惜しんでハンガリー語を勉強し、すぐにスピーチや手紙を書くことまでこなすほどに成長しました。

ウィーンにハンガリーからの使節団がやってきた時には、ハンガリーの民族衣装を着て流暢なハンガリー語でもてなしました。

皇帝夫妻がハンガリーを訪れた時は、晩さん会や舞踏会に自ら参加しハンガリーの人々の輪に溶け込んだようです。

もちろんハンガリーの人々は、エリーザベトに好意を抱き、たちまち人気者の皇妃になりました。

二重帝国の成立

オーストリアの支配下にあったハンガリーが独立を目論見、再三にわたって反乱を起こすことにオーストリアは頭を悩ませていました。

オーストリアは普墺戦争(ふおうせんそう)の敗北で弱体化し、ハンガリーを武力で抑えられなくなったのです。

ハンガリーも完全独立ではなく、ハプスブルク家の庇護のもと自治権を獲得したいとの動きもありました。

ウィーンでは政治に関与しなかったエリーザベトですが、ハンガリーの特権と自由の保証を条件に和解するという彼らの意見に賛同政治活動を手助けしました。

エリーザベトが夫に手紙を送るなど上手く立ち回った功績もあり、和解が成立したといわれています。

姑のゾフィは反対したものの、ヨーゼフはハンガリーの人々からの信頼の厚い妻の言葉を信じ政治上の懸念を捨てて、和解に応じたという裏話もあったようです。

これにより、ハプスブルク家の領地は二分されました。

ウィーンとブタペストに首都が置かれ、オーストリアとハンガリーの二重帝国が成立しました。

 

暗殺されたエリーザベト

夫婦関係の修復は不可能

ルドルフの死後、生き甲斐だった愛娘マリー・ヴァレリーが幸せな結婚をします。

抜け殻となったエリーザベトは夫ヨーゼフに夫婦関係の修復を願い出ました。

ヨーゼフは、母ゾフィが亡くなった時、自分の心の支えにならなかったことを理由に

「修復は無理だ。自由に生きる君を見ていたい。」

と諭しました。

再び旅にでるエリーザベト

極端なダイエットでエリーザベトの老化は、万人より早かったようです。

精神的な病と座骨神経痛などの保養で、ヨーロッパ旅行にでました。

このころは民主主義運動が横行し、無政府主義やテロリストたちが王族の命を狙っており、貴族たちは恐れおののいていました。

しかし、自殺願望も強かったエリーザベトは、身辺警護もつけずに放浪の旅を楽しんだのです。

暗殺の時

エリーザベトは、豊かな自然と周辺に温泉施設があり、お気に入りだったスイスのレマン湖に滞在します。午前中に街歩きを楽しみ、保養地に戻るため船に乗ろうと桟橋を渡った時のこと。

イタリア無政府主義者のルイジ・ルケーニが、すれ違いざまにヤスリで胸を一突き

倒れたものの自分で起き上がり、話しながら約80mも歩き自分が刺されたことにも気づかなかったとか。

船上で再び倒れた彼女は、微笑みながら「何があったの?」とささやき意識を失い、その1時間後に亡くなりました。

エリーザベトは夫に愛されていた

夫のヨーゼフが彼女の訃報を聞いたのは、非業にもエリーザベトへ手紙を書いている最中でした。

途中の文はそのままに、手紙の余白には

「僕があなたをどれほど愛していたか、きっと誰にも永遠にわからないだろう。」

と書かれています。

 

きょうのまとめ

最後までお読み頂きありがとうございました。

エリーザベトについていかがでしたでしょうか。

エリーザベトとは?

① 幸福な少女といわれ自由奔放に暮らす少女時代

② 誰もが幸せと思う皇帝の花嫁となるも、これは悲劇の始まりだった

③ 息子を育てることを許されなかった

④ オーストリアとハンガリーの二重王国成立に貢献する

⑤ 無政府主義者ルイジ・ルケーニに暗殺された

ウィーンを嫌い逃げ出すように旅に明け暮れたエリーザベトが亡くなった時、市民は彼女の死ではなくヨーゼフの涙する姿を見て嘆き悲しんだとか。

68年もオーストリアを統治したヨーゼフの死をもって、

ハプスブルク帝国は事実上終焉を迎えています。

 










合わせて読みたい記事



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

18 − eleven =