銅像・大隈重信の背中越しの大隈講堂。
メディアなどで早稲田大学の話題が取り上げられる際、よく見るあの写真です。
慶応義塾大学と並び、私学の雄と呼ばれる早稲田大学。
実は大隈が早稲田大学を創設する際には、色々あったそうで・・・・・・。
そこで今回は、大隈重信と早稲田大学創立にまつわるエピソードについてご紹介していきます。
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大隈が開校式を欠席した理由とは?
1882年10月、早稲田の地に東京専門学校(現早稲田大学)が設立されました。
創設者は前年、「明治十四年の政変」で下野した大隈重信です。
明治十四年の政変とは
当時、参議という職を務めていた大隈でしたが、
国会の開設や憲法の制定に関して急進的な意見を持っていたため、
伊藤博文らに睨まれていました。
そして大隈は北海道開拓使官有物払下げ事件※に関係していたと決めつけられ、
免官されてしまいます。
開拓使長官を務めていた黒田清隆が、総額1,500万円にのぼる官有物をわずか38万円などの有利な条件で五代友厚らの経営する関西貿易社に払い下げようとした事件のこと。
失脚した大隈がまず取りかったのが、立憲改進党※の結成でした。
明治十四年の政変でともに下野した官僚などを中心に結成された、二院制・イギリス流立憲君主制を主張する政党です。
そして日本が西洋列強と肩を並べるためには国民への教育が必要であると考え、
東京専門学校をつくったのです。
大隈の別邸が東京府南豊島郡早稲田村にあったため、早稲田がその開校地に選ばれました。
政党と学校、一見関係のないように見えますが、
いずれも立憲国家を目指すという大隈の構想の中にあったようです。
西南戦争も関係していた?政府からの監視・妨害
こうして設立された東京専門学校でしたが、
当初は立憲改進党系の学校とみなされ、政府による監視が厳しかったようです。
大隈は前年に政界から追放されたばかり。
そこで大隈が政党の党員を育てるための学校なのではないか? と疑念を持たれたのです。
さらに、東京専門学校設立の5年前には西南戦争が起きています。
西南戦争は、西郷隆盛が下野してつくった私学校の生徒たちにより、
西郷が担ぎ上げられて勃発した戦い。
政府が目を光らせるのも、無理はありませんよね。
警戒された東京専門学校は、銀行からの融資を妨害されたこともあったようです。
そこで高利貸しから借金をするなどして乗り切ったそうですが、
そんな大隈を支えていたメンバーの中には慶応義塾出身者もいました。
現在は早稲田のライバルとされる慶応ですが、本当は助けてもらっていたんですね。
また慶應義塾の経営がうまくいかなくなったときには、
大隈が政府に援助を働きかけたりもしています。
「学問の独立」を証明するために
東京専門学校の開校式には福沢諭吉の姿がありましたが、
肝心な創立者・大隈重信はいませんでした。
代わりに大隈のブレーンとして有名な小野梓が演説を行い、「学問の独立」を宣言。
大隈は政治家である自らが開校式に出席しないことで、
学問を政治権力から切り離すことを示したと考えられます。
創立15年目にして早稲田で初めての演説を行い、政界引退後、
創立25年目にしてやっと早稲田大学総長に就任したほどです。
できるだけ距離を取り続けていたことがわかります。
早稲田の建学の精神「学問の独立」を、創立者自らが証明したということです。
きょうのまとめ
今回は大隈重信と早稲田大学の創立に関してご紹介しましたが、いかがでしたでしょうか。
② 東京専門学校は政府から監視されていた
③ 大隈は開校式に欠席することで「学問の独立」を
こちらのサイトでは、他にも大隈重信にまつわる記事をわかりやすく書いています。
ご興味をお持ちの方は、ぜひご覧になってくださいね!
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