西郷隆盛とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

2018年のNHK大河ドラマ『 西郷(せご)どん 』では、

西郷隆盛の波乱の生涯が描かれるそうです(2017年10月現在)。

今もなお絶大な人気を誇る西郷さんですが、いったいどんな人物だったのでしょうか。

改めて西郷隆盛についておさらいしましょう!

西郷隆盛はどんな人?

  • 出身地: 薩摩藩(現在の鹿児島県)
  • 生年月日: 1827年12月7日
  • 死亡年月日: 1877年9月24日(享年 51歳)
  • 薩長同盟を結び、江戸無血開城などを成し遂げた明治維新の立役者。西南戦争にて自決する。

西郷隆盛 年表

西暦(年齢)
1827年(1歳) 鹿児島城下・下鍛冶屋(しもかじや)町に生まれる。(幼名、小吉)

1844年(18歳) 藩に出仕し、郡方書役助(こおりかたかきやくすけ)となる。

1850年(24歳) 島津斉彬(しまづ・なりあきら)に農政に関する意見書を提出する。

1854年(28歳) 斉彬のお供として江戸へ向かう。庭方役(にわかたやく)に昇進する。

1859年(33歳) 奄美大島で潜居生活を始める。

1862年(36歳) 鹿児島に帰国するも、再び流刑に。

1864年(38歳) 禁門の変で薩摩軍を指揮する。

1866年(40歳) 薩長同盟を結ぶ。

1868年(42歳) 鳥羽伏見の戦い。江戸無血開城。

1871年(45歳) 新政府の参議となる。

1873年(47歳) 征韓論騒動が起こり、敗れて鹿児島へ帰国する。

1874年(48歳) 私学校を作る。

1877年(51歳) 西南戦争・城山にて自決する。

下級武士から明治維新の立役者となるも逆賊扱いとなった波乱の生涯

西郷隆盛は、薩摩藩の下級武士という身分の低い家に生まれました。

西郷隆盛を描いた絵を一度はご覧になったことがあると思いますが、

特徴的なのは大きな目ですよね。

幼少のころから目の大きかった西郷は、

巨大眼(うどめ)さあ 」というあだ名をつけられていたそうです。

 
西郷隆盛の写真、容姿についてはこちら

低い身分からの大出世

18歳になった西郷は、郡方書役助(こおりかたかきやくすけ)という藩の仕事に従事します。

これは農村の実情を調べて、年貢を集めるという仕事でした。

西郷はこの役目を10年間昇給なしで勤め、年貢に苦しむ農民に寄り添うこととなりました。

郡方書役助という肩書ですが、本来であれば出世の見込みのない職でした。

しかし農政に関する嘆願書を提出したのがきっかけで、

西郷は藩主の島津斉彬(しまづ・なりあきら)の目に留まりました。

そして1854年、参勤交代をする斉彬のお供として、江戸へと向かうことになりました。

江戸へ到着すると、庭方役(にわかたやく)という役目に任命されます。

庭方役とは庭を掃除する係ですが、いつでも殿様と会話ができる側近となったということです。

西郷は斉彬に対する忠誠を誓い、藩の大切な仕事を次々と担っていきます。

度重なる島での暮らし

ですが、尊敬していた斉彬が急死すると、西郷の運命はさらに変わります。

僧との入水自殺を図るも一命をとりとめ、奄美大島へと向かうこととなるのです。

 
こちらについては、下記の記事で詳しく書いています。

奄美大島での暮らしが落ち着いた頃、西郷に帰藩命令が出されます。

鹿児島へと戻った西郷でしたが、なんと藩主の父・島津久光(ひさみつ)と対立してしまい、

わずか4ヵ月で今度は徳之島(とくのしま。奄美大島よりも沖縄に近い。)へ、

さらにそれからで1ヶ月で沖永良部島(おきのえらぶじま)へと流されています。

沖永良部島では座敷牢に入れられますが、その中でも西郷はなんと学問に励み、

塾まで開いてしまうほどでした。

結局西郷は、38歳まで島で暮らすこととなります。

西郷が島に流されている間には、

世の中では薩英戦争や八月十八日の政変など、大きな歴史的事件が起こっていました。

すると次第に薩摩藩内で西郷を呼び戻そうという動きが活発化し、

かつて西郷と対立していた久光も渋々それに同意したと言われています。

再び歴史の表舞台へ

連れ戻されて京へ出た西郷は1864年、禁門の変で薩摩軍を指揮することになります。

1866年には、あの有名な薩長同盟を結んでいます。

さらには王政復古の大号令ではクーデターを成功させるなど、明治維新の立役者となりました。

戊辰戦争では東征大総督府下参謀という役目を果たし、

新政府軍の実質的な責任者として活躍しました。

この頃の出来事として特に有名なのは、江戸城無血開城です。

新政府側は江戸城を総攻撃する予定だったのですが、西郷と旧幕府側の勝海舟が会談を行い、

両者は血を流すことなく江戸城を明け渡すことが決まったのです。

 
その経緯など、詳しくは下記の記事に書いています。

新政府に仕えるも下野

戊辰戦争が終わらぬうちに、西郷は鹿児島へと戻りました。

どうやら、自分の仕事はもう終わったので、隠居して楽しく暮らしたいと思っていたそうです。

ですが、当時まだできたての明治新政府は多くの課題を抱えていました。

それら諸問題の解決には西郷の力が必要だということで、再び西郷は上京することを決めます。

新政府で西郷は廃藩置県などに尽力し、

さらには岩倉使節団が留守にしている政府の最高責任者も務めました。

しかし、その使節団が帰国すると、政府内の主導権争いが激しくなります。

当時、朝鮮に対してどのように対処するかという問題がありました。

それは、朝鮮側が明治新政府との付き合いを拒否したことが始まりでした。

この対応に、明治政府内では意見が分かれます。

その中には武力によって、朝鮮を開国させようという人たちもいました。

これに対して西郷隆盛は、いきなり軍事力に任せるのではなく、

朝鮮に使節を派遣することを提案します。

ですがこの西郷の意見に対して、

海外を視察してきた大久保利通や岩倉具視は「 内地優先(国内の改革が先) 」を主張します。

この問題が発端となり、西郷や板垣退助らは下野(=官職をやめること)することになりました。

私学校の創設から西南戦争へ

鹿児島に戻った西郷隆盛は、青少年の育成のために「 私学校 」を創設することになりました。

私学校では軍事訓練や漢学などの教育が行われ、海外への留学制度などもあったそうです。

そこで教育を受けた生徒たちが県の要職を占めるようになると、

次第に鹿児島県に対する私学校の影響力が強まりました。

さらに私学校の幹部たちは反政府を掲げるようになり、当然、政府からも睨まれてしまいました。

そして、とうとう私学校の生徒たちは政府側の挑発に乗ってしまい、西南戦争が始まります。

 
西南戦争についてはこちら

熊本城や田原坂の戦いなどを経て、追い詰められた薩摩軍は鹿児島の城山へと戻ってきます。

そして1877年9月24日、政府軍による総攻撃が開始されました。

ついに銃弾に倒れた西郷は、側近に介錯(かいしゃく)を頼んでこの世を去りました。

このように、明治維新の立役者であった西郷隆盛は、

最後は逆賊としてその人生の幕を下ろしたのです。

しかし、1889年の大日本帝国憲法の発布をきっかけに大赦(たいしゃ)され、

正三位を贈られました。

その後、上野に銅像が建てられることになり、今も多くのファンが訪れる場所となっています。

西郷隆盛にまつわるエピソードや伝説

それでは西郷隆盛に関する有名なエピソードについて、いくつかご紹介していきますね。

極貧だった幼少期

先ほど、西郷隆盛は薩摩藩の下級武士の子として生まれたことをご紹介しました。

実際にはどれだけ位が低かったかというと、

士族とされるグループの中では下から2番目の「 御小姓与(おこしょうぐみ) 」という階級でした。

さらに西郷家は11人の大家族で、長男・隆盛の下には弟3人、妹が3人もいました。

なお、三男がのちに明治新政府で大臣などを務めることとなる従道(つぐみち)です。

お給料もあまり多くはなく、

さらに大家族となれば家計を支えるのは大変になることが予想できますよね。

一家の大黒柱であった父の吉兵衛は日置島津家とその分家・赤山家の会計係を務めていましたが、

借金のためにもらっていた知行も売り払うことを余儀なくされていたそうです。

そのため、幼少期の西郷隆盛にはいくつか極貧エピソードがあります。

冬にはきょうだいみんなで一枚の布団に足を突っ込んで寝たり、

早朝から8キロも離れた畑で農作業を行い、月明かりの中を戻って来たりもしたそうです。

この頃の経験が、西郷隆盛という偉大な人間性を築く礎(いしずえ)となったのかもしれません。

木戸孝允との会談をドタキャン

1865年5月、薩長同盟の提案を受けた西郷は、中岡慎太郎とともに船で下関を目指していました。

そして下関では、坂本龍馬と木戸孝允がその到着を待っていました。

しかし船旅の途中、西郷は薩摩の大久保利通から手紙を受け取ります。

その頃の大久保は、長州と和解することに反対だったのです。

すると西郷は中岡を佐賀で船から降ろし、そのまま京へと向かってしまいました。

つまり、木戸との会談をすっぽかしてしまったのです。

当然、木戸は激怒しました。

中岡慎太郎が受けたショックも、相当だったのではないでしょうか・・・・・・。

しかし同年の6月には、西郷が龍馬に対して謝罪します。

そして翌年から再度、薩長の和解が話し合われるようになりました。

ですが西郷と木戸は自分たちの藩のメンツを第一に考えていたために、

交渉は難航したといいます。

すると龍馬と中岡が必死に説得してくれたため、薩摩側から同盟を申し込む形になりました。

巨漢だった西郷隆盛

諸説ありますが、西郷隆盛の身長は身長は179cm、体重は109kgだったとも言われています。

江戸時代末期における成人男性の平均身長は155㎝くらいとされているので、

当時もかなりの大柄だったと考えられます。

なお、坂本龍馬は172㎝、中岡慎太郎は153㎝くらいであったのではないかとされています。

身長はさて置き、体重もかなりあったようですね。

西郷は脂身の多い肉や鰻の蒲焼きが好物で、さらには甘党だったといいます。

そんな食生活がたたってか、ドイツ人医師のホフマンからは肥満の診断を受けています。

それをきっかけに、食事療法や狩猟など運動を行うようになったそうです。

なお、愛犬家としても有名な西郷隆盛ですが、犬に肉をあげすぎた結果、

猟犬までが肥満体となってしまったという逸話もあるほどです。

 
西郷隆盛の犬についてはこちら

きょうのまとめ

最後までお読み頂きありがとうございました。西郷隆盛についていかがでしたでしょうか。

西郷隆盛とは?

①薩摩藩の極貧下級武士の身分から明治維新の立役者にまで成りあがった

②度重なる離島生活の末、政治の第一線へと舞い戻った

③逆賊として最期を迎えるも大赦された

④木戸孝允との約束をすっぽかした

⑤かなり立派な体格をしており、愛犬までも太らせてしまったらしい

その他の記事でも西郷隆盛にまつわる色々な記事を書いています。

よろしければどうぞご覧ください。

 
西郷隆盛の名言についてはこちら










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