大隈重信もガックリ?初の政党内閣が失敗した理由

 

大隈重信と板垣退助を中心として成立した隈板(わいはん)内閣。

日本初の政党内閣としても有名です。

しかし、わずか4カ月という短命に終わっているのです。

そこで今回は、隈板内閣の成立から短命に終わった理由までを簡単にご紹介していきます。

憲政党の結成

明治31(1898)年6月30日、日本で初めての政党内閣・第一次大隈内閣が発足(ほっそく)しました。

政党内閣とは議会で多数を占める政党によって組織される内閣のこと。

今の日本では当たり前ですが、それまでは薩長閥が内閣を動かしていたのです。

もとは別々の政党だった

それに先立つ1898年6月22日、憲政党が結党されました。

憲政党とは隈板内閣を支えていた政党です。

こちらの政党は大隈の進歩党、そして板垣退助の自由党が合同して出来上がりました。

両者の力を結集し、政権獲得に向けて動いたのです。

ということで、一つの政党の中には大きく二つの勢力が同居していたということですね。

それから二日後、そのとき総理を務めていた伊藤博文が辞表を提出しました。

とうとう大隈に、総理の座が回ってきたのです。

諸改革に着手

大隈は総理就任後、政党内閣の確立に向けた改革に着手します。

内閣の主要ポストや地方官には政党員を登用し、従来の官僚政治にもメスを入れました。

さらには民間人の登用などにも取り組み、その年の8月に行われた総選挙では多くの議席を獲得し、大勝しています。

そして終焉へ

勢いに乗っているように見えた隈板内閣でしたが、官僚からは強い抵抗にあいます。

さらに政党からの要求も過大になり、次第に当初の勢いはなくなっていきました。

そんな中、内閣瓦解(がかい)の決定的要因となったのが共和演説事件です。

共和演説事件

発端は総選挙からわずか12日後に行われた、尾崎幸雄(おざき・ゆきお)文相による講演でした。

その中で問題となったのは下記です。

日本に共和政治が行われたと仮定すれば、三井・三菱は大統領候補となろう

尾崎は金権政治を批判したのですが、新聞は「 共和政治 」※という例えの部分が天皇批判にあたると報じました。

共和政治とは君主制に対する政治形態のこと。大日本帝国の統治原理は君主制でした。

すると旧自由党系の勢力もこれに賛同し、尾崎は辞任することになります。

さらに文相の後任人事を巡り、旧進歩党系と旧自由党系は争うことに。

そこへ山県有朋ら薩長閥まで入って来たので、もうぐちゃぐちゃだったことは想像に難くありません。

そして10月、尾崎を弾劾(だんがい)した板垣退助内相が辞表を提出。

その翌日、第一次大隈内閣は総辞職しました。

憲政党の分裂

さらに憲政党は二つに分裂します。

まあ、こんなことがあったら、もう一緒にはやっていけないでしょうね。

旧自由党系は引き続き憲政党を名乗り、旧進歩党は憲政本党を名乗ることになります。

選挙のたびに合流する政党は今も多い中、やはり別々の組織が一緒にやっていくというのは難しいのですね。

きょうのまとめ

今回は、初の政党内閣である第一次大隈重信内閣(隈板内閣)の成立から瓦解までを簡単にご紹介しました。

① 政権獲得のために自由党と進歩党が合同して憲政党を結党した

② 政党内閣確立のため、大隈は様々な改革に着手した

③ 尾崎幸雄の共和演説事件が原因で隈板内閣は瓦解した

こちらのサイトでは、他にも大隈重信にまつわる記事をわかりやすく書いています。

ご興味をお持ちの方は、ぜひご覧になってくださいね!

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