福沢諭吉とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

新しい時代をつくるのは何も政治家や官僚など、直接国に関わる人たちだけではありません。

かつて民間の立場から、この国の人びとの思想に多大な影響を及ぼし、

新時代を切り開いた人がいます。

福沢諭吉

一万円札の顔として知らない人はいませんが、果たしてはどんな人物だったのでしょうか。

福沢諭吉はどんな人?

プロフィール
福沢諭吉

出典:Wikipedia

  • 出身地:大坂(現在の大阪府大阪市)
  • 生年月日:1835年
  • 死亡年月日:1901年2月3日(享年66歳)
  • 日本の文明開化の立役者。慶應義塾を創設した。

 

福沢諭吉 年表

年表

西暦(年齢)

1835年(1歳)中津藩下級武士の家に生まれる(出生地は大坂)。

1854年(19歳)長崎へ遊学

1855年(20歳)適塾に入門

1858年(23歳)江戸へ。蘭学塾を開く。

1859年(24歳)咸臨丸に乗ってアメリカへ。

1861年(26歳)お錦と結婚

1862年(27歳)ヨーロッパ使節団に参加

1863年(28歳)私塾創設

1868年(33歳)私塾の名を「慶應義塾」とする。

1872年(37歳)『学問のすゝめ』初編発刊

1901年(66歳)死去

 

民間の立場から社会をよくしようとした人物

下級武士の家に生まれる

福沢諭吉は中津藩(現在の大分県中津市)の下級武士・福沢百助とお順の間に生まれました。

その当時、父親の百助は大坂の蔵屋敷で働いていたので、生まれは大坂ということになります。

二男三女の末っ子として生まれた諭吉は、わずか1歳で父親を亡くしています。

諭吉の父親は身分制度で苦労をした人でした。

詳しいことは下記でご紹介しているので割愛しますが、

このことが諭吉の人格にかなりの影響を及ぼしているようです。

 

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貧しいながらも学問に励む

父の死後、母は子供たちを連れ、中津へと戻ることになりました。

貧しい生活の中、諭吉は一生懸命学問に励みます。

そして19歳になった頃、諭吉は兄の誘いで長崎へと遊学することになりました。

オランダの砲術について勉強するためです。

そして諭吉は、山本重知という西洋砲術の第一人者の弟子となりました。

彼の下では勉強のほか、身の回りの世話や犬・ネコの世話までもしていたそうです。

そんな忙しい合間を縫って、諭吉は蘭学の勉強に励みました。

適塾に入門

ですが一緒に長崎へ来ていた家老の息子に嫉妬されてしまい、

諭吉は長崎を離れなくてはいかなくなりました。

そこで向かったのが大坂です。

当時の大坂は、長崎にも劣らないくらい蘭学が盛んな土地でした。

諭吉は緒方洪庵おがたこうあんという有名な蘭学者が開いてた「適塾」に入門します。

多くの秀才たちが集う適塾で、諭吉は塾頭(最も優秀な生徒)にまでのぼりつめました。

江戸に出る

そして諭吉23歳の頃、中津藩から江戸へ行くことを命じられたのでした。

江戸へ出た諭吉は、築地の鉄砲洲という場所で蘭学塾を開きます。

これが慶應義塾の前身です。

今や3万人を超える学生が学ぶ慶応義塾大学ですが、

塾ができた当時は3・4人の生徒しかいなかったそうです。

西洋文化に触れる

そして独学で英語を学んでいた諭吉に、チャンスが訪れます。

幕府の船・咸臨丸かんりんまる※に乗って太平洋を横断し、

アメリカのサンフランシスコへと渡ったのです。

日米修好通商条約の批准書を交換するため、幕府の役人が派遣されました。

アメリカには、諭吉の父を苦しめた身分制度はありません。

平等と自由に象徴されるアメリカの文化は、諭吉に衝撃を与えたそうです。

帰国した諭吉は結婚するも、翌年には再びヨーロッパへと派遣されたした。

そこで見聞きしたことを『西洋事情』にまとめて発表しました。

この本は20万部を超えるベストセラーとなり、徳川慶喜も読んだといわれています。

 

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色んな形で社会に貢献

明治元年(1868年)、それまで開いていた塾の名を「慶應義塾」と正式に決定しました。

これはただ単に名前を変えたというわけではありません。

「義塾」には社会に貢献する人材を育成するという意味が込められており、

それまでの福沢諭吉の私塾とは違うということの表明です。

また明治五年(1872年)には、有名な『学問のすすめ』の初編が発行されました。

こちらも大ベストセラーとなり、当時の人びとの意識に多大なる影響を与えたのです。

その後も北里柴三郎の伝染病研究所設立に協力したり、朝鮮の独立運動にも力を貸しました。

啓蒙思想家・教育者・作家・など様々な形で、社会に貢献したのです。

そんな諭吉は明治34年(1901年)、脳出血が原因で66歳にしてその生涯を閉じました。

 

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福沢諭吉にまつわるエピソードや伝説

ちょっとやそっとで不満を言う人間が許せない

福沢諭吉の父は脳溢血のういっけつで、44歳という若さながらこの世を去りました。

そのため一家は中津へと戻ることになりましたが、そこでは大変な暮らしが待っていたのです。

まず、家が荒れ果てていました。

近くの川が氾濫して、土砂が家の中まで入っていたようです。

ただでさえ貧しかったのですが、それをなおす費用もかさんでしまったのでした。

そんな中、諭吉は塾に通い、漢文の勉強をしていました。

ですが、ただ勉強だけ頑張っていたわけではありません。

しっかりと家の手伝いや、家計を少しでも支えるための内職なども行っていたのです。

しかも諭吉は、これに対して何の不満も言わなかったそうです。

そんな少年時代を送ったからこそ、

ちょっとやそっとのことで不満を言う人間のことは気に食わなかったとか。

教育者という立場になってからは、「馬鹿は不平多し」「 空き樽はよく鳴る 」

などと書いた色紙を生徒に渡していたといいます。

これくらいのことでガタガタ言うな! と思うことが多かったのでしょう。

ショック!オランダ語が通じない

江戸で蘭学塾を開いた福沢諭吉。

それから間もなく横浜が開港します。

そこで諭吉は真夜中に築地を出発し、翌朝、横浜へ到着しました。

横浜の外国人居留地で、少しでも海外の文化に触れようと思っていたのです。

到着するとすぐ、歩いていた外国人に得意のオランダ語で話しかけてみた諭吉。

困る外国人。

相手が何をしゃべっているのか、わからない諭吉。

そして申し訳なさそうに立ち去る外国人・・・・・・。

そうです、当時から主流は英語。

オランダ語が話せる外国人は少なかったのです。

ショックを受けた諭吉はその後、独学で英語を勉強し始めたということです。

 

きょうのまとめ

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

福沢諭吉とは?

① 貧しい家に育ち苦労もしたが、誰よりも学問に励んだ

② 緒方洪庵に影響を受け、慶應義塾をつくるなど教育者としても活躍した

③ 実際に西洋の文明に触れ、その普及に努めた

こちらのサイトでは、他にも福沢諭吉に関する記事をわかりやすく書いています。

ご興味をお持ちの方は、ぜひご覧になってくださいね!

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