ピエトロ・マスカーニとはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

19世紀後半~20世紀前半にかけてイタリアで活躍した作曲家、

ピエトロ・マスカーニ

オペラ《カヴァレリア・ルスティカーナ》で大成功を収めた彼ですが、晩年は全財産を失うという悲劇的な運命を辿っています。

ピエトロ・マスカーニとは一体どの様な人物だったのでしょうか。

今回は、彼の主な功績を辿りながらその生涯について見ていきましょう。

 

ピエトロ・マスカーニはどんな人?

プロフィール
ピエトロ・マスカーニ

1903
出典:Wikipedia

  • 出身地:イタリア リヴォルノ
  • 生年月日:1863年12月7日
  • 死亡年月日:1945年8月2日(享年81歳)
  • イタリアの作曲家、指揮者、教師。 主にオペラ作品で有名。

 

ピエトロ・マスカーニ 年表

年表

西暦(年齢)

1863年(0歳)イタリアのトスカーナ州リヴォルノで、パン屋の家庭に誕生。

1881年(18歳)父親の勧めで法律を学んでいたが音楽に興味があり、伯父の力を借りてケルビー二音楽院で学んだ後に卒業する。

1882年(19歳)自作曲によって才能が認められ、ミラノ音楽院入学。ポンキエッリに師事。

1884年(21歳)同音楽院を中退後、音楽関係の職を転々としながら作曲活動も行う。

1890年(27歳)ローマの楽譜出版社主催のコンクールに、オペラ《カヴァレリア・ルスティカーナ》を応募し当選。初演されて大成功を収める。

1895年(32歳)ペーサロにあるロッシーニ音楽院で院長に就任。

1929年(66歳)ミラノ・スカラ座の首席指揮者に就任。ファシスト政権に近づき、戦後は全財産を没収される。

1945年(81歳)ローマのホテルで死去し、ローマに埋葬される。

1951年 名誉が挽回され、故郷のリヴォルノに再埋葬される。

 

ピエトロ・マスカーニの生涯

ここからは早速、ピエトロ・マスカーニの主な功績からその生涯をご紹介していきます。

若き日のピエトロ・マスカーニ

1863年、イタリアのトスカーナ州にある港町、リヴォルノに誕生したピエトロ・マスカーニ。

実家は町でパン屋を営んでいましたが、若き日の彼は父親の勧めで法律を学んでいました。

しかし、実は音楽に強い関心を寄せていたピエトロ・マスカーニ。

そこで彼は理解のあった伯父の助けを借りて父親を説得し、故郷にあるケルビーニ音楽院で本格的に学び始めたのです。

18歳で無事に卒業した彼は、

・交響曲

・オペラ

・カンタータ

などを作曲します。

そして19歳の時にはその才能が認められ、ミラノにある国立の音楽大学、ミラノ音楽院に入学することができました。

ピエトロ・マスカーニはこの音楽院で、イタリアオペラの作曲家として著名なポンキエッリ(1834~1886)に作曲を師事します。

しかし、彼の下で約2年ほど学んだ後に中退することを選んだピエトロ・マスカーニはその後、

・指揮者

・チェロ奏者

など演奏に携わる職をしばらく転々としました。

そしてその後、彼はイタリア南東部に位置するチェリニョーラで音楽学校の教師となります。

オペラ《カヴァレリア・ルスティカーナ》

教員生活を送っていたピエトロ・マスカーニの人生が一変したのは、彼が27歳を迎えた時でした。

ローマにある楽譜出版社ソンゾーニョの、一幕歌劇コンクールに応募した作品が見事当選したのです。

それがピエトロ・マスカーニの代表作、オペラ《カヴァレリア・ルスティカーナ》でした。

オペラ《カヴァレリア・ルスティカーナ》

この作品により、無名だった彼は一躍著名な作曲家の仲間入りを果たします。

同年に初演され大成功を収めると、彼は指揮者としても成功を掴んだのです。

ここで少し《カヴァレリア・ルスティカーナ》について見ていきましょう。

この作品の原作は1880年に出版された小説で、タイトルは「田舎の騎士道」を意味しています。

19世紀後半から20世紀にかけ、イタリアでは芸術の新たな兆候として「ヴェリズモ(リアリズム)」という運動が見られました。

オペラにおけるその傾向を簡単にまとめると、

・従来のオペラ

 → 神話やおとぎ話など、非現実的な題材

・ヴェリズモ・オペラ

 → 庶民の日常や事件など、現実的な題材

といった題材の変化が見られます。

《カヴァレリア・ルスティカーナ》の舞台はシチリアで、始まりは復活祭の朝のこと。

登場人物たちは全員、キリスト教の厳格な道徳的秩序から外れた罪を犯しています。

内容は、シチリアのとある村で起こる男女のもつれが織りなす、裏切りあり、殺人ありの人間ドラマとなっています。

現実的な演劇に、ピエトロ・マスカーニは激しくドラマチックな音楽表現を持ち込むことで、登場人物たちの生々しい感情を見事に表現しきったのです。

この作品をもって、彼は音楽によるヴェリズモを確立。

多くの支持を得てコンクールで一等を獲得し、後の作曲家たちにも多大な影響を与えることとなりました。

その後の悲劇

オペラ《カヴァレリア・ルスティカーナ》の驚異的な成功により、一気に著名な音楽家となったピエトロ・マスカーニ。

彼の作品には、オペラの他にも

・オペレッタ

・管弦楽曲

・声楽曲

・歌曲

・ピアノ曲

などがあります。

しかし彼はその生涯において、《カヴァレリア・ルスティカーナ》を越えるものを作ることはできませんでした。

そしてそれ故に、同時代に活躍し数々のオペラ作品をヒットさせていたプッチーニ(1858~1924)と長年比較されることとなったのです。

また、66歳の時にミラノのスカラ座で首席指揮者に就任したピエトロ・マスカーニは、その後第二の転換期を迎えることになります。

イタリアでファシスト党政権が誕生すると、彼はスカラ座で監督の座を狙うべく、ムッソリーニに近づいたのです。

これにより彼はムッソリーニに協力したとみなされ、第二次世界大戦の終結後は、築き上げた全財産を没収されてしまうという悲劇に見舞われました。

そして1945年8月2日、ローマ市内にあるホテルで息を引き取ります。

81歳の生涯でした。

 

ピエトロ・マスカーニにまつわるエピソード

ここではピエトロ・マスカーニの人物像をもう少し掘り下げるために、彼にまつわるエピソードをご紹介します。

中退の理由


ミラノ音楽院に入学後、約2年で中退しているピエトロ・マスカーニ。

その背景には意外な理由が潜んでいました。

在学中、彼はアルバイトをしていたのですが、実はそれは校則違反でした。

そしてそれを院長に咎められると、ピエトロ・マスカーニは逆切れし、その勢いで中退したのです。

彼はそもそも父親の意見に反発して音楽の道に進んでいますし、音楽業界を転々としているときには結婚前に子供を授かったりもしています。

そんな破天荒とも言える自由な気質は、オペラ《カヴァレリア・ルスティカーナ》のリアルな人間模様を描き出す重要なスパイスになっていた、とも考えられるのです。

名誉の回復

ファシスト党へ加担したとみなされ、全財産を没収され、寂しい晩年を送ることになったピエトロ・マスカーニ。

彼は死後、ローマの地に埋葬されました。

しかしその約6年後の1951年、彼は生まれ故郷リヴォルノに再埋葬されることになりました。

これに伴い、彼は無事に名誉を回復することになったのです。

彼の名誉がもし回復されていなければ、その功績は歴史の層の中に埋め隠され、現代の私たちが知る機会も永遠に失われていたかもしれませんね。

 

きょうのまとめ

今回はイタリアの音楽家、ピエトロ・マスカーニについて主な功績やエピソードからその生涯を辿っていきました。

いかがでしたでしょうか。

最後に、ピエトロ・マスカーニとはどの様な人物だったのか簡単にまとめると

① 19世紀後半~20世紀にイタリアで活躍した作曲家、指揮者、教師。

② 代表作はオペラ《カヴァレリア・ルスティカーナ》。

③ ファシスト党に加担したとみなされたが、死後名誉を回復した。

オペラと言うと、馴染みのない人には少し敷居が高く感じられるかもしれません。

しかしピエトロ・マスカーニの《カヴァレリア・ルスティカーナ》は、いわばゴシップ的作品。

リアルな人間ドラマを、オペラを通して覗いてみてはいかがでしょう。

 

【参考URL】
・HISTORY OF MUSIC
https://history-of-music.com/mascagni 
・ようこそ 音楽サロン へ
http://pietro.music.coocan.jp/storia/mascani_cavalleria_rusiticana.html
・OPERA-INSIDE
https://opera-inside.com/%E3%82%AB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AC%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%8A-%E3%83%94%E3%82%A8%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%B9/?lang=ja

 

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