戦いに見る楠木正成の名言と後世への影響

後醍醐天皇

 

鎌倉時代の終わりから南北朝時代に活躍した楠木正成くすのきまさしげは、鎌倉幕府打倒に貢献した天才武将。

今回は、歴戦の勇士であった正成が、戦いの中で彼自身が残した名言、また彼が取り上げた言葉が名言として残ったものをご紹介していきます。

 

赤坂城・千早城での戦いと名言

楠木正成

楠木正成
出典:Wikipedia

楠木正成の名言が長く伝えられるのは、彼の言葉が表面的なものではなく、行動に表れているからです。

楠木正成は言葉と行動が一致する誇り高き武人でした。

彼の知略と武勇がこれでもかと発揮された1331年の赤坂城の戦い、1333年の千早城の戦いとそれにまつわる名言です。

名言「合戦の勝負必ずしも大勢小勢に依らず」

後醍醐天皇の鎌倉幕府の倒幕計画に味方した楠木正成ですが、後醍醐天皇が笠置山の戦いで捕らえられた後も、護良親王もりよししんのうを擁して赤坂城で幕府軍を相手に籠城しました。

一説には20万もの幕府軍に対してたった500の兵で迎え撃った正成軍。

幕府はすぐに決着がつく戦いだと思っていたのですが、正成軍は、敵を欺く釣塀つりべいを使って、わざと塀を倒すと上から大石や熱湯をかけるなどして塀に群がっていた幕府軍に大きなダメージを与えます。

「合戦の勝負 必ずしも大勢小勢に依らず ただ士卒の志を一つにするとせざるとなり」

(戦いの勝ち負けは、必ずしも兵の数の多い少ないで決まるのではなく、兵の心を一つにすることで決まるのである)

まさに正成の言葉は、この戦いのように数は少なくても目的のために皆の心を一つにして戦うことの大切さを説いています。

その後、幕府軍は城には手を出さずに持久戦に持ち込みますが、急ごしらえの赤坂城には兵糧がなく、正成は城を放棄することを決断。

赤坂城に火を点け、わざと幕府軍に城を奪わせます。

城内に判別のつかない焼死体を発見した幕府軍は、それらが正成や一族のものだと判断して戦は終了しました。

しかし、実際の正成は護良親王とともにまんまと逃亡に成功しています。

名言「良将は戦わずして勝つ」

また、軍記物語『太平記』には楠木正成の、

「良将は戦わずして勝つと申し候えば…」

(有能な将軍は戦わずに勝つと言うが・・・)

という言葉が見られます。

これは、中国の『孫子』と呼ばれる兵法の本にある言葉を引用したものだと考えられます。

戦いのない世が一番ですが、それが避けられないなら、武将にとって最も理想的な勝利とは、政治や交渉、知略などの戦闘以外の手段によって優位となることだと正成は考えていたのです。

1332年の赤坂城の奪還作戦では、正成軍は、赤坂城に持ち込む兵糧の米俵に武器を仕込み、人夫姿となって城内へ侵入。

彼らが武器を取り出してときの声を上げるのと同時に、城外からも押し寄せる軍勢に城内の人々は恐怖し降伏します。

こうして彼の言葉通り、正成は一戦も交えることなく赤坂城奪還に成功したのです。

名言「大なる知恵も細なる知恵もなくてはかなわぬ」

1333年、楠木正成は、赤坂城や金剛山中腹にある千早城でまたしても幕府の大軍と戦うことになりました。

鎌倉幕府の軍の数は2.5万~8万(『太平記』によれば幕府軍は100万!)、正成軍は1000だったと言われており、絶体絶命の大ピンチ。

しかし、正成軍は知恵を絞って大軍を迎え撃ちます。

夜のうちに甲冑を着せた藁人形を囮として用意し、朝になって敵兵が人形へと殺到したところで、大量の石を落とすなどのゲリラ戦法で鎌倉幕府軍を苦しめたのです。

大将は大なる知恵も細なる知恵もなくてはかなわぬものなり。知恵は生まれつきにありというも、その知恵を磨かざれば正智(正しい知識)いずることなし。知恵に自慢おごりて、磨かざる大将はみな代々持ち来る国を失い、家をなくすものなり」

(大将とは、大きな知恵や小さな知恵を持たなくてはならないものだ。知恵は生まれつきのものだというが、それを磨き続けなければ正しい知恵が出てこない。持っている知恵を自慢するだけで磨かなければ、大将は代々持っている国を失い、家もなくなってしまう)

正成の知略は、圧倒的な戦力差を埋めることができるほどの最高の武器でした。

この彼の言葉はそういう戦い方へのヒントとなっていたのです。

 

正成の最期となった湊川の戦いと名言

正成は、足利尊氏や新田義貞らと共に鎌倉幕府を倒幕しました。

しかし、その後の後醍醐天皇による建武の新政が公家重視だったため、足利尊氏が離反。

正成は天皇に忠義を尽くし、足利尊氏軍を一度は破ったものの、九州で体制を整えた尊氏と再び湊川で戦うことになりました。

自軍の不利を知っていた正成は尊氏軍との和睦を主張しますが、後醍醐天皇に認められず、尊氏との戦いを強いられました。

この戦いに敗北した正成は、弟の楠木正季まさすえと共に自害しています。

名言「七生報国」

自害直前に正成は弟の正季と言葉を交しました。

正季が

「七回人として生まれ変わって、朝廷の敵を滅ぼして国のために報いたい」

と言うと、

「罪深き悪念なれどもわれもかように思うなり。いざさらば同じく生を変えてこの本懐を達成せん」

(罪深い救われない考えではあるが自分もそう思う。その願いを達成するために死のう。さらばだ)

と言い、それが最期の言葉となりました。

「七生報国」を語った人物は他にもいたと思われますが、やがてこれは正成の言葉として一人歩きし始めます。

天皇のために戦った忠臣・楠木正成の言葉は、明治維新時の根本的思想となりました。

また、第二次世界大戦時には「七生報国」が「皇国に報いる」という意味を込めた戦争を肯定するスローガンとして使われることになったのでした。

これらは後世の人々が考える楠木正成に対のイメージに深く関係しました。

 

きょうのまとめ

今回は、天才武将と呼ばれた楠木正成の名言をいくつかご紹介させていただきました。

簡単にまとめると

① 言行一致していた楠木正成は、その名言を裏付けるよう素晴らしい戦いぶりを見せた

② 名将正成の言葉には、その中に一軍の将としての考え方のヒントが秘められていた

③ 天皇のために尽くした正成の言葉は後の時代に都合良く利用された

でした。

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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku