最強武将・楠木正成の勝ち戦と負け戦

 

楠木正成は、鎌倉時代末期から南北朝時代に活躍した多くの武将の中で、最強クラスの武将です。

彼は一体どんな戦い方をしたのでしょうか。

 

1331年9月 赤坂城の戦い

楠木正成

楠木正成
出典:Wikipedia

山城国相楽郡笠置山やましろこくそうらくぐんかさぎやまで倒幕を企てた後醍醐天皇に呼応して、楠木正成くすのきまさしげ赤坂城で挙兵しました。

天皇の企ては失敗しましたが、正成軍は笠置山を落ち延びてきた護良親王もりよししんのうを擁し、幕府の正規軍と籠城戦で渡り合いました。

楠木正成という武将の凄さが歴史上で最初に認識されたと言って良い戦いです。

正成軍の兵力はたった500人、北条高時の差し向けた鎌倉幕府軍は正規軍4軍で約1万人(『太平記』の約30万人は誇張か)でした。

正成軍の大半は本来の武士ではなく、武装した農民を中心に編成されていましたが、

・城外に伏兵を用意して幕府軍が城壁へやってきたところを矢で狙い撃ち

・休憩中の幕府軍に対して城から出て奇襲攻撃

・釣塀を切り落とし、敵兵を地面に落として大木や大石を投げ落とす

・塀に警戒する幕府軍に熱湯をかける

などの策略で幕府軍を翻弄し、一時は退却させるほどでした。

幕府軍が兵糧攻めに作戦を変更すると、正成は赤坂城の放棄を決定。

城を炎上させます。

戦死者の死体を焼け跡から発見されるよう配置し、幕府軍の注意が燃える赤坂城に向けられている間にまんまと城から逃げ出したのです。

焼死体を発見した幕府軍は、それらを楠木正成とその一族のものだと考え、関東へ引き上げました。

 

1332年4月 赤坂城奪還

死んだはずの楠木正成が、赤坂城を取り戻した戦いです。

倒幕失敗の後醍醐天皇は隠岐に配流されていましたが、吉野にいた護良親王が幕府討滅の令旨(皇子などの命令書)を出して再び挙兵。

死んだと思われていた楠木正成も、当時湯浅氏が抑える赤坂城を奪還するべく立ち上がりました。

まずは城へ持ち込まれる途中の兵糧を襲って奪います。

次に人夫や警固の者になりすまして、武器を仕込んだ俵を持って城内に運び入れることに成功。

武器を手にし、城の内外から同時にときの声を上げて威嚇すると、城は一戦も交えることなく降伏し、正成は赤坂城を見事に取り戻しました。

 

1332年5月 天王寺の戦い

赤坂城奪還時に湯浅氏を引き入れた正成軍は、和泉と河内を攻め落とし、摂津の天王寺も占拠。

勢いは京へ迫ります。

京の幕府の出先機関・六波羅探題は、宇都宮公綱うつのみやきんつなに正成軍討伐命令を出します。

宇都宮軍の兵は500~700人で、対する正成軍は2000人。

正成軍有利に思える状況ですが、正成は「戦うべし」との家臣の進言を抑えます。

そして「良将は戦わずして勝つ」と言って全軍を天王寺から撤退してしまいました。

正成は、宇都宮が戦上手であること、その精鋭部隊が命知らずの猛者揃いだと知っていたのです。

天王寺をあっさり占拠した宇都宮軍に、正成は心理戦で迫ります。

和泉や河内エリアの幕府に不満を持つ数千もの民衆の協力により、天王寺を取り囲む山で松明たいまつに火を灯して数万の大軍を演出

いつこの大軍勢が攻めてくるのかという緊張感による3日3晩眠れないプレッシャーで、幕府最強と言われた宇都宮軍は4日後に天王寺から撤退してしまいました。

一戦も交えず、一滴の血を流さずに勝利した正成軍は、再び天王寺を奪取したのです。

 

1333年2月 千早城の戦い

この戦いは、鎌倉幕府倒幕の直接のきっかけとなった戦いです。

楠木正成は、金剛山に下赤坂城、上赤坂城、そして本丸として千早城の3つの城を築き、山全体を要塞化して幕府軍を迎え撃ったのです。

正成の奇策

水源を遮断して上赤坂城を落とした幕府軍と、護良親王の吉野城を落とした幕府軍とが合流して、千早城が取り囲まれました。

幕府軍数万から数十万もの兵に対し、正成軍はわずか約1000人。

数では幕府軍にかなわない正成軍は、籠城戦に持ち込みました。

・大岩の投石

・大木の切り落とし

・甲冑を着せたわら人形をおとりにわざと引きつけてからの弓矢の一斉射撃

・火計

正成の奇策に次ぐ奇策で、突撃のたびに幕府軍は多大な損害を被ります。

正成軍の強さがきっかけの幕府滅亡

十分な兵糧の備蓄があり、かつ地元住民と連携する正成軍には兵糧攻めが通じません。

正成は、土地の者や野伏(武装化した民衆、野武士)の協力で幕府軍の兵糧部隊を襲撃して補給路を断ちました。

飢えに苦しんだ幕府軍は、戦場からは多くの兵士の脱走を許しました。

幕府の大軍が楠木正成一人に振り回されている、という知らせはまたたく間に全国に広がり、幕府の権威は失墜

各地で倒幕が叫ばれる事態となり、足利尊氏、新田義貞をはじめとする各地の武将たちの蜂起が始まり、鎌倉幕府の滅亡へとつながりました。

 

1336年5月 湊川の戦い

この戦いは、九州で兵力をつけて東上してきた足利尊氏・直義兄弟の軍と、これを迎え討った後醍醐天皇方の楠木正成・新田義貞軍との合戦です。

建武の新政に不満を持ち、後醍醐天皇に反旗を翻した足利尊氏は、この年の2月には楠木正成・新田義貞・北畠顕家らに一度は破れ、京から九州へ敗走していました。

戦略を認められない正成

楠木正成は、武将としての足利尊氏を高く評価していました。

彼は、朝廷の立場がまだ有利なうちに足利方との和睦するよう天皇に奏上。

しかし、天皇や公家たちから一笑に付され、認められませんでした。

まず、勅命を受けた新田義貞軍が京に迫る尊氏軍の阻止を試みますが、大量の寝返りや投降者が続出して退却。

そして今度は正成に尊氏軍を迎え撃つ命が下りました。

正成は、比叡山に帝を匿い、その間に新田義貞と共に京で尊氏軍を挟み撃ちして、兵糧攻めで弱らせてから攻める作戦を進言。

しかし、天皇を移動させるのは体裁が悪いと意見され、この作戦も却下されたのです。

勝ち目のない戦い

仕方なく正成は新田義貞の軍と合流して兵庫で足利軍を迎え討ちます。

新田・楠木軍の兵は約1万7500人(諸説あり)、足利軍は約3万5000人(諸説あり)でした。

尊氏の奇襲作戦によって、総大将の新田義貞は判断を誤り、正成軍は孤立します。

それでも700騎あまりの正成軍は、16回も突撃を繰り返したのです。

兵の数を減らし、正成を含むごく僅かに残った者たちは、湊川付近の民家に身を寄せ(諸説あり)、皆で差し違えて自害してしまいました。

 

正成の強さの理由

多聞天たもんてん化生けしょう=軍神の化身と呼ばれた楠木正成も最後には自分で命を絶ちました。

しかし、その彼の鮮やかな戦いぶりと強さは皆が認めるところです。

正成は、足利尊氏や新田義貞のように源氏の血を引くエリート武士団出身ではありません。

大和地方一帯に根を張った民衆を束ねる力のある人物で、彼に協力する武装集団には

・賎民

・野伏

・農民、

・伊賀・甲賀の忍者

なども含まれたと考えられます。

正成が、正統派の戦いだけでなく、ゲリラ戦・奇襲戦諜報・謀略をも得意としたのは、彼らの強みを上手く利用した戦術を用いたことです。

 

きょうのまとめ

今回は、当時最強の武将・楠木正成の戦いぶりをご紹介しました。

簡単なまとめ

① 楠木正成は正攻法と奇策を使い分けるスゴ腕の戦略家だった

② 正成は奇策によって戦わずに勝利したこともある

③ 正成軍は圧倒的な兵力差があっても地元民との連携、ゲリラ戦、奇襲戦、諜報戦でカバーして戦った

④ 進言を聞き入れてもらえず負け戦と知りながらも、正成は最後まで全力を尽くして戦った

 

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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku