後醍醐天皇の家臣・楠木正成の忠誠は死後も利用され続けた!?

後醍醐天皇

 

楠木正成くすのきまさしげは、後醍醐天皇を助けて鎌倉幕府の倒幕に貢献した、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将です。

彼は死ぬまで後醍醐天皇を裏切ることのなかった忠義に厚い家臣として知られています。

ここでは2人の出会い、そして忠誠を尽くした正成の生き方が後世の日本でどのように捉えられ、利用されたのかについてご紹介します。

 

後醍醐天皇と家臣・楠木正成との出会い

楠木正成

楠木正成
出典:Wikipedia

楠木正成の出自については不明な点が多く、

・河内の土豪

・悪党と呼ばれる地方の武装集団の出身

・御家人

だったなどの説があります。

いずれにせよ、正成は清和源氏の流れを汲む武士としては上級の足利尊氏や新田義貞などと違い、本来ならば後醍醐天皇と縁のない人物のはずでした。

夢のお告げで出会った正成と後醍醐天皇の伝説

天皇のような雲の上の人物が楠木正成と出会って家臣とした経緯については、軍記物語『太平記』に逸話があります。

鎌倉幕府倒幕計画が発覚して都を追われた後醍醐天皇が、笠置山で心細い生活を送っていた頃のこと。

夢の中で紫宸殿の庭に南向きに枝が伸びた大きな木があらわれました。

その木の下の宴席に官人たちが着席する中、南の玉座ぎょくざ(天皇が坐る場所)が空席になっているのを不審に思っていると、童子が現われて後醍醐天皇をそこに招いたのです。

目覚めた後、後醍醐天皇はこれが「木」と「南」、つまり「くすのき」を表わす夢のお告げであると悟ります。

身の回りの者に「このあたりにクスノキという者はいないか」と尋ね、河内国金剛山の西麓に住む楠木正成という武将を呼び寄せたといいます。

 
しかし、この有名な逸話は『太平記』による創作でしょう。

正成と後醍醐天皇の実際の出会いとは

楠木正成は、少年時代に観心寺(大阪府河内長野市)で朱子学を学んでいました。

実は、この寺は後醍醐天皇の大覚寺統の系列の寺でしたから、朱子学に傾倒していたとされる天皇は、観心寺を通じて楠木正成の存在を知ったのかもしれません。

また現実的な説として、後醍醐天皇が各地の武士に決起を促した際、応じた者の中に正成がいた可能性はあります。

正成が当時「悪党」と呼ばれた既存の権力への抵抗勢力だった場合、また御家人だったとしても、河内に暮す正成が東国の幕府よりも西の天皇を身近に感じて参加したとしても不自然ではありません。

2人の出会いについての詳しい経緯の解明は今後の資料の発見と研究が待たれます。

 

忠臣・楠木正成は後世に利用された!?

楠木正成は後醍醐天皇が目指す鎌倉幕府倒幕のために戦い、足利尊氏らとともにそれを成功させます。

しかし後醍醐天皇による「建武の新政」は武士たちの反感を買い、尊氏は天皇に反旗を翻したのです。

後醍醐天皇に忠義を尽くそうとした正成は、劣勢と知りながら湊川の戦いで尊氏と対決し、敗戦して自害しました。

そして、最期まで天皇の家臣として身を呈して戦った正成のこの生き方は、おそらく彼が思ってもみない形で後の世に利用されることになりました。

後世正成の生き方はこのように評価されてきた

楠木正成の死後に、世は南北朝時代となりました。

江戸時代の初期までは室町幕府を築いた足利尊氏が讃えられ、後醍醐天皇が樹立した独自の南朝ではなく、光明天皇から始まった北朝が正統とされました。

【江戸時代の水戸学】

ところが江戸時代に水戸藩による『大日本史』の編纂で、尊皇の考えにもとづく水戸学が注目されます。

儒教思想や伝統を重んじる水戸学は、南朝を正統と考えたので、後醍醐天皇の忠臣だった楠木正成の生き方がクローズアップされていきました。

【勤皇の志士たちの理想】

幕末に尊皇攘夷運動が盛んになると、後醍醐天皇の忠臣としての正成の生き方は、幕末勤王思想の精神的なバックボーンとなっていきました。

頼山陽・吉田松陰・三条実美・坂本龍馬・高杉晋作・西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允・伊藤博文などの錚々たるメンバーは、みな楠木正成の墓前で天皇への忠誠を誓い、正成を理想として新しい時代をめざしたのです。

【明治の「南北朝正閏問題せいじゅんもんだい」】

明治時代には、日本は天皇を中心とする近代国家への変身を急ぎます。

1911年には、南朝と北朝のどちらが正当の朝廷かという大議論「南北朝正閏問題」が起きました。

最終的には、明治天皇が既に根付いていた考え方を踏襲する形で、南朝が正統だと裁定。

その結果国民は、

・後醍醐天皇の南朝が正統で楠木正成は忠臣の鑑

・北朝は偽朝で足利尊氏は逆賊

だという歴史教育を叩き込まれることとなりました。

【第二次世界大戦終戦までの皇国史観】

日中戦争から太平洋戦争期に日本は軍国主義一色に染まります。

天皇中心の超国家主義的な歴史観である「皇国史観」が全てのベースとなりました。

戦死を覚悟して、大義のために戦場に赴くことが「忠臣」、「日本人の鑑」であると讃えられたのです。

正成の忠義を尽くした生き方は、日本が国民を煽動して戦争を継続するために利用されてしまいました。

【戦後・現代】

敗戦後の日本では、日本国憲法の施行で国民主権が明確になり皇国史観は一掃されました。

「楠木正成=忠臣、足利尊氏=逆賊」という単純なイメージは、今はもう過去のものです。

昨今の研究では、楠木正成の武将としての顔以外に、ビジネス的な才能、御家人的側面や体制に反抗する悪党的性格などが浮かび上がってきており、彼の多面的な実像が明らかになりつつあります。

 

きょうのまとめ

今回は、後醍醐天皇の家臣として誠を尽くした楠木正成との出会いと正成の生き方が、後世にどう利用されてしまったのかについてご紹介しました。

簡単なまとめ

① 楠木正成と後醍醐天皇の出会いについては諸説あって明確なことはわかっていない

② 正成が後醍醐天皇に忠義を尽くして仕えたことは、江戸時代の水戸学、バウ末の尊皇攘夷運動、第二次世界大戦における国の皇国史観などに利用された

③ 現代では正成の忠臣としてのイメージに加え、多才な人物であったことが明らかになってきている

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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku