シーボルトの子孫たちの数奇な運命…娘は日本人初の女性産婦人科医

 

シーボルトは鎖国真っ只中にあった江戸時代後期、長崎・出島のオランダ商館を通して日本に出入りしていた数少ない外国人です。

日本におけるその功績は、なんといっても西洋医学を普及させ、医学の進歩を促したこと。

そんな医学界の権威の血は、その後も子孫や弟子たちによって脈々と受け継がれていきました。

今回はそんなシーボルトの子孫でも特に有名な楠本イネ・高子に注目してみましょう。

どうやらふたりとも、ある種、数奇な運命を辿っているようですが…?

 

シーボルトを追って女性医師となった娘・楠本イネ

楠本イネ
出典:Wikipedia

シーボルトの娘・楠本イネは、彼が出島で医師をしていたころに知り合った遊女・楠本滝とのあいだに生まれた子。

そして後に日本人女性初の産婦人科医になる人物でもあります。

1829年、彼女が2歳のころ、シーボルトは日本の資料を国外へ持ち出そうとした罪で日本を追放されてしまいました。

しかし滝とシーボルトの交流は続き、イネは父親から送られてくる医学書などを通して、医学に親しんでいったのだといいます。

シーボルトの弟子を頼って医師を志す

イネは18歳になると、愛媛県宇和島市で医師をしていたシーボルトの弟子・二宮敬作を訪ね、本格的に医師を志すようになります。

敬作はシーボルトの弟子でも特に抜きんでた技術をもっており、シーボルトからも「娘を頼む」と強くお願いされていた人物でした。

また彼はシーボルトが罪に問われた際、共犯者として投獄されており、そのときにシーボルトが身を挺して守ってくれた恩もあって、終生イネのことを気にかけていたといいます。

しかし外科が専門だった敬作は、

「女性なら産婦人科がいい」

と言い、同じシーボルトの弟子で、産婦人科医をしていた石井宗謙そうけんのもとへイネを送ることに。

またこれも敬作の勧めで、イネはエリート蘭学者の村田蔵六からオランダ語を学んだりもしました。

1858年に日蘭通商条約が結ばれ、シーボルトに再渡航の許可が出てからは、彼から直接医学を学んでいますし、彼以外のオランダ人医師にも師事しています。

蔵六から学んだオランダ語はこのころに役立ったのでしょうね。

日本における出産の常識を変える医師に

こうして腕に磨きをかけていったイネは、異母弟のアレクサンダー、ハインリヒからの支援を受け、東京は築地にて産婦人科を開業します。

来日したシーボルトの息子たちとの関係も良好だったようですね。

そしてイネは、ここから医師として目覚ましい活躍を見せていきます。

当時の日本には出産に対する正しい知識が浸透しておらず、不適切な環境で処置されることも多かったのだとか。

その点、西洋医学を十分に学んだイネの技術は革新的で、この時期に日本の出産現場の常識は大きく変わったといいます。

イネの技術はあの福沢諭吉にも認められ、彼の推薦で宮内庁のお抱え医師となり、明治天皇の官女の出産を担当したこともありました。

こうして医師として順風満帆な人生を歩んだイネ。

そんな彼女にも実は一度、思わず顔をしかめてしまうような、悲しい大事件が起こっています…。

 

医師を志すイネを襲った悲劇

前述のとおりイネは産婦人科医になるため、19歳のころ、石井宗謙という医師のもとに送られています。

彼女を襲った悲劇は、この宗謙とのあいだに起こったものでした。

イネが25歳を迎えたころのこと、あろうことか、宗謙は彼女を強姦し、なんと妊娠させてしまうのです。

このとき生まれた子が、楠本高子

シーボルトにとっては孫にあたります。

宗謙は高子を養女として引き取ると言ったそうですが、イネがこれを拒否。

そこから彼女は生涯独身を貫き、シングルマザーとして高子を育てていくことにします。

ちなみに高子は生まれたとき「タダ」という名前を付けられており、高子というのは、イネがお世話になっていた宇和島藩主・伊達宗城だてむねなりが改名させたものです。

タダという名前は

「神様からタダで授かった子なんだ」

というイネの想いから名付けられたもの。

宗城はそんな由来の名前を不憫に思ったのでしょうね。

ともあれ、日本初の女性産婦人科医が出産で辛い経験をするというのは、なんだか皮肉な話です…。

 

娘の高子も同じ道を辿ることに…

シングルマザーのイネと、祖母の滝に育てられた高子は、やがてシーボルトの弟子のひとり三瀬諸淵みせもろぶちと結婚。

しかし諸淵に先立たれて未亡人になり、このころから母と同じ産婦人科医を志します。

医師だった夫の想いを引き継ぎたい気持ちがあったのでしょうか?

ただ…この高子の夢は道半ばで閉ざされてしまうことになります。

なんと彼女もイネと同じように、師事していた医師に強姦され、妊娠してしまうのです。

この事件のショックで、高子は医師の道を諦めてしまうことに。

数奇な運命というか…産婦人科医を志すふたりが辿る出来事としては、ちょっと痛ましすぎます…。

このとき生まれた息子の周三が、後に医師になっていることがせめてもの救いでしょうか。

ちなみに高子は欧米人の血が混ざっていることもあり、顔立ちが整っており、漫画家の松本零士さんが『銀河鉄道999』のメーテルのモデルにしたなんて逸話もあります。

きっと母親のイネも同じく綺麗だったのでしょうね。

いくら綺麗だからって…ねえ。

 

きょうのまとめ

楠本イネは日本人女性初の産婦人科医に。

その娘・高子は医師の道を断念しましたが、その道は高子の息子・周三によって紡がれていきました。

イネと高子には痛ましい共通点もありましたが、日本に西洋医学をもたらしたシーボルトの意志は着々と、子孫たちに受け継がれていったのです。

最後に今回のまとめです。

① シーボルトは出島で知り合った遊女の滝とのあいだに、イネという娘を設け、弟子たちにその成長を託した。

② イネは日本人初の女性産婦人科医に。シーボルトの弟子を頼って学び、日本におけるお産の手法を確立した。

③ イネと娘の高子は互いに強姦で子どもを授かった辛い経験がある。

ちなみにイネは、漫画『JIN-仁-』12巻にも登場しています。

漫画で気になって記事に目を通してくれた人もいるかもしれませんね。

漫画の題材になるぐらい、やはりこの時代に医師としてはある種、代名詞のような存在だったといえます。

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