今川義元 家系図から読み解く公家の顔

 

戦国大名として一大勢力を誇り、名を馳せた今川義元

その御先祖とは?

公家出身の今川義元の母、寿桂尼(じゅけいに)とは?

家系図を紐解きながら、みていきましょう。

 

今川義元の家系図

まずは、今川義元の家系図を確認しましょう。

 

「 今川 」の起源

今川氏は日本の武家の清和源氏として河内源氏の流れを汲む足利氏、

御一家、吉良家の分家にあたります。

吉良家は足利将軍家の親族であり足利宗家の継承権を有し、

他の足利一門諸家とは別格の家柄でした。

つまり、そうした吉良家の分家にあたる今川家は、

将軍に何かがあって将軍家の存続が難しい状況に陥った際には、

その将軍職を引き継ぐ権利を持っていた名家中の名家だったのです。

今川氏は足利将軍一家の氏族として、

その祖は鎌倉時代の今川国氏(くにうじ)(1243~1282)まで遡ります。

国氏は父、長氏から三河国の幡豆郡、今川荘(愛知県西尾市今川町)の今川の地を与えられ、そこで今川の姓を称しました。

国氏の孫にあたる今川範国(のりくに)は、室町幕府の成立に貢献し遠江、駿河の守護となり、

ここに初代当主、今川範国が誕生しました。

かくして室町幕府のもとで順調に勢力を伸ばし、一方で公家とも交わる中で政治、

軍事的役割を拡大していった今川家ですが今川義元の父、

そして公家出身の母方のその実情など、家系図を紐解きながらみていきましょう。

主な登場人物

今川氏親(うじちか)

今川義元の父で今川家、第7代当主今川家を戦国大名にした立役者。

今川氏親は幼年期に起きた父親の突然死により、

今川家の家督争いに巻き込まれますが、

叔父の北条早雲の助けで、

同じ一族の小鹿範満を破り今川家の家督を継ぐことができました。

その後も早雲と共に、遠江国を収めるまでに勢力を拡大することに成功した氏親は、

分国法、「 今川仮名目録 」などを制定し、

今川家が戦国大名となる先駆けとなりました。

寿桂尼(じゅけいに)

今川氏親の正室。

今川家の全盛期を支えた女戦国大名の異名を持つ今川義元の母

京の公家,藤原北家の一族の出身で、

寿桂尼の父は中御門宣胤といい歌人として高名な方でした。

夫の今川氏親、嫡男の氏輝、義元、孫の氏真までの当主四代に渡る今川家を支え続けました。

「 今川仮名目録 」とは、今川家が発行した裁判の基準について書かれているものですが

東国の武家によって作られた最古のものと言われます。

これは夫の今川氏親が亡くなる70日ほど前に

寿桂尼(じゅけいに)を中心に作成されたと言われています。

氏親、死後はまだ若年の後継者の氏輝に代わり文書の発給など

当主の役割も果たしていたことから女戦国大名と称されました。

公家出身の寿桂尼(じゅけいに)は、その人脈を使って今川家が一大勢力を持つ

戦国大名に発展することに尽力しました。

今川氏輝(同母兄 うじてる)

今川義元の兄で今川家、第8代当主

家督相続時、幼少の14歳で病弱でもあった為、

代わって母の寿桂尼が政務を務めました。

しかし1536年に、若くして氏輝の弟、

彦五郎と同じ日に謎の突然死をし毒殺、自殺説など諸説があります。

玄広恵探(異母兄 げんこうえたん)

恵探の母(今川氏親の側室)は、今川家臣、福島正成の娘といわれます。

今川義元との、今川家の家督争い、花倉の乱(1536年)に敗れ自害しました。

今川義元

今川家、第9代当主

永正16年(1519)今川氏親の五男として生誕します。

すでに家督、後継者として兄、氏輝がいた為、

義元は4歳から駿河国、善徳寺にて仏門に入り修行を積んでいました。

ここで今川家、重臣出身の僧である太原雪斎に預けられた義元は、
後に京に上り五山に学んで、教養を深めていきました。

しかし1536年、その兄、氏輝と次兄の彦五郎までもが亡くなるという事件が起きた為、側室の異母兄である、玄広恵探(げんこうえたん)と家督を争い、花倉の乱で一戦を交えて勝利を収めた末、遂に義元は今川家、第9代当主となりました。

義元は幼い頃から自分を教育し、
助言を与えてくれた今川家、重臣出身の太原雪斎を軍師として重用していきます。

さらに、今まで北条氏と連携していたところを、
大きく政策の方針を変えて1537年には、これまで争っていた武田方の信虎の娘(武田信玄の同母姉)を妻にします。

これにより北条氏との抗争が、始まることになりました。

1545年武田信玄の仲介により、争っていた北条家と和睦を結ぶことになります。

義元は、武田信玄、北条氏康と甲相駿三国同盟を1554年に締結します。

きょうのまとめ

今川義元は父、氏親の今川家の領土を守りながら、さらなる一大勢力へ発展させようと

「 海道一の弓取り 」の異名に相応しく、新たな侵攻を進めていきました。

駿河は、今川義元が好んだ京風文化で賑わう国として栄えていました。

義元は、戦国時代を正室の寿桂尼の公家としての協力も得ながら

今川家、第9代当主として勢力拡大に努めた素晴らしい武将と言えるのではないでしょうか。

 

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