今川義元は織田信長になぜ敗れた?桶狭間の戦いの逆転劇に迫る

 

「桶狭間の戦い」にて、わずか2000~3000人の兵力を率いる織田信長が、

2万5000人を率いる今川義元を破った逸話はあまりにも有名ですよね。

この戦の話になると信長の敏腕具合にスポットが充てられがちですが、対する義元がどんな感じで織田軍を制圧しようとしていたのか、意識している人って実は少ないのでは?

そこで今回は信長ではなく、義元の視点から桶狭間の戦いの大逆転劇に迫ってみましょう!

この人…たしかに実力のある武将なのですが、ちょっと調子に乗りすぎたんです。

 

もちろん今川義元も登場!?明智光秀が主役の「麒麟がくる」がはじまりますね。
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今川義元が桶狭間の戦いで負けた原因とは?

今川義元

今川義元
出典:Wikipedia

桶狭間の戦いで信長が義元に勝てたのは「今川軍の隙をつき、織田軍が奇襲を仕掛けたから」ということは知っている人も多いでしょう。

このときの勝因は

・戦場の田楽狭間が嵐に見舞われ行軍を隠すことができた

・関係ない場所に旗を掲げさせることで居場所をかく乱させた

という信長の運のよさや機転がよく挙げられます。

今川義元の油断が原因?

対する義元はこのとき何をしていたかというと…休憩です。

近隣の僧侶などから酒を献上され、飲めや歌えやの大宴会…。

しかも周囲を丘に囲まれていて見晴らしが悪く、道が細いため大軍は展開しにくい田楽狭間にて。

…ちょっと油断しすぎな気がしますね。

義元が尾張制圧に向けた2万5000という兵力は今川軍のほぼ全勢力で、普通なら自国が占領されたときにやむを得ず展開する数にも近いといわれています。

この気合いの入れようを踏まえると油断とはいかにも無縁に感じますが…なぜ?

相次ぐ戦勝報告に浮足立っていた

まずこの田楽狭間で義元が休憩を取ろうと言い出したのは、

今川領に対して戦線を張っていた織田領の丸根砦・鷲津砦を陥落させた報告が相次いで入ってきたからです。

義元は駿河(現在の静岡市)に本拠地を置きながら三河(現在の愛知県豊川市)や遠江とおとうみ(現在の静岡県磐田市)を支配し、広大な領土を築いた武将。

このときも三河の松平元康(のちの徳川家康)、遠江の朝比奈泰朝やすともに手分けをさせ、織田軍の拠点を一気に陥落させる戦法をとっていました。

配下の国に先陣を切らせ、本陣は別ルートで進軍。

大将の安全は絶対に確保できるという、義元の十八番おはこ戦術です。

この戦術が功を奏し、数時間のうちに複数の砦を落とすことに成功した義元は

「やはり天下の今川軍に敵などいないのだ!」

と、つい浮足立ってしまいます。

自分の考えた作戦がトントン拍子に運んで調子に乗ってしまう気持ちはわかりますが…。

三河・遠江に頼りきりで本隊は大したことなかった

そう、兵力を分散させて織田領を攻めていたといっても、義元の周囲を守る兵は5000人ほどいましたから、たとえ奇襲されても普通は2000人そこそこの織田軍に簡単にはやられないでしょう。

しかし実際に奇襲に遭った際に義元を守った親衛隊は300騎ほどで、残りの数千人ただただ動揺して動けない状態になってしまいました。

義元は前述のように、配下の国に先陣を切らせる戦法を常としていたため、その実、本隊は戦い慣れていなかったのです。

大将の首を絶対取らせないがための戦術が完全に裏目に出てしまっています…。

実際、三河や遠江は戦も非常に強い国でしたが、本拠地である駿河はそれにかまけ、まるで貴族のような暮らしをしていたため、かなり衰えていたんだとか。

義元自身も敵地の最中であるにも関わらず派手な鎧兜をまとい、いかにも「大将です!」というような出で立ちをしていました。

さらに当時化粧の一種であったお歯黒まで施していたという話も…ここ、戦場なんですけど…。

 

今川家と織田家の因縁は親の代から

こうして奇跡の大逆転劇を演じた信長にとって、義元は自身の名を世に轟かせるきっかけになった武将なわけですが、その因縁は実はかなり長きに渡るものです。

というのも、今川家と織田家は信長の父・信秀の時代からいざこざを繰り返しています。

桶狭間の戦いの丁度30年ほど前、1532年には信秀が義元の弟・氏豊うじとよをだまし討ちして那古野城を奪取したという話もあれば、それこそ1540年代に行われた織田・今川間の「小豆坂あずきざかの戦い」を義元が制したことで三河は今川領になっています。

1560年になって今川軍が尾張に攻め込んで来たことにも、こういった度重なる確執が無関係ではないでしょう。

ちなみに信長が14歳のころの初陣「吉良大浜きらおおはまの戦い」も義元が相手でした。

このときも義元が2000~3000の兵力を率いているのに対し、信長は800人ほどしか兵をもっていなかったといいます。

なんでも直接戦うのではなく、風向きを観察して火をつけて回ることで対抗したのだとか。

これを踏まえると信長が数をものともしない男だということは、義元も重々わかっていたはずなんですけどね。

 

きょうのまとめ

今川義元は駿河・三河・遠江と自身の領土を大きく広げていった武将。

その実力はたしかなもののはずでした。

しかし権力を得ると人にはどうしてもおごりが出てしまうもの…信長はそんな義元のおごりにうまく付け込んだといえますね。

最後に今回のまとめをしておきましょう。

① 今川義元は織田領の砦を次々に制圧し、浮足立っていた

② 配下の三河や遠江の兵力に頼りすぎて、本陣は戦い慣れていなかった

③ 親の代からいざこざの繰り返し。今川家と織田家の確執は30年以上続くものだった

何はともあれこの桶狭間の戦いで長きに渡った両家の確執にも決着が着き、さらに三河の独立を促したことで徳川家康の台頭にもつながったわけです。

義元は良くも悪くも、戦国時代の立役者だったといえますね。

 

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