今川義元の息子の氏真とはどのような人物だったのか?

 

生まれは戦国大名、名家の一人息子。
 
桶狭間の戦いで、織田信長に敗れた

今川義元の息子の今川氏真(うじざね)とは、

どのような人物だったのでしょうか? 

 

今川氏真にまつわるエピソード

温室育ち?

今川氏真は戦国時代に戦国大名として今川家の全盛期を築いた、

今川家第9代当主・今川義元の息子です。

また母は武田信虎の娘で武田信玄の姉でもある、定恵院(じょうけいいん)というまさに名門の出身の方でした。

ただ妹2人で男兄弟がいなかった為か、
第10代当主として家督を継ぐ一人息子としてはある意味、温室育ちだったといいます。

仇討ちよりも蹴鞠をしたかった?

氏真は、桶狭間の戦いで織田信長に敗れた、父義元の仇討ちをしませんでした。

その理由は、まことしやかに後世に語り継がれているような、

「 蹴鞠をしたかった。 」とか「 戦が怖かった。 」とか決してそのようなことではありません。

ただ今川家から離反し、後に天下人となった徳川家康にとって氏真が

そのような阿保だからこそ、愛想を尽かして離反した

という話にした方がもっともな理由になり、世間からの非難を免れることができると考え、

後世にそのように伝わるようになったのかもしれません。

 

桶狭間の戦い後

実際のところ、第9代当主、今川義元が桶狭間の戦い(1560年)に敗れて、

亡き後の今川氏真はどのような武将だったのでしょうか。

今川氏真のその後について、みていきましょう。

今川家衰退の影

、今川義元の時代に繰り返されていた織田家との激しい戦いによって
今川配下の豪族たちが、当時負担させられていた戦争の為の莫大な費用は限界に達していました。

そこに、まさかの負け戦となった桶狭間の戦いでの義元の死により豪族達の不満が一挙に爆発したのです。

哀れ、負け戦の後始末をすることになった氏真にとって
今川領土の三河、遠江の統治は、それこそ困難を極め一筋縄にはいきませんでした。

こうした状況の中でも、今川氏真は頻繁に文書発給を行い、また北条氏康氏との連携を図り、幕府の権威によって領国の混乱を収めようと第10代当主として尽力しました。

しかし、氏真の努力もむなしく今川家の滅亡への歩みを止めることはできなかったのです。

そして長年、今川家の人質となり義元の存命中には桶狭間の戦いで織田信長とも戦った松平元康(後の徳川家康)の離反の動きが、今川氏真に不運な衰退の影を忍び寄らせることになります。

松平元康との断交
永禄4年(1561年)

松平元康は織田方についていた叔父の水野信元の働きで織田信長との和睦を果たします。

これにより 氏真と元康は断交となり、三河を巡る争いが始まりました。(三州錯乱) 
 
永禄6年(1563年)には、松平元康は「 家康 」に改名し、なおも三河の領土争いを熾烈化させていきました。

今川家滅亡の筋書き
永禄7年(1564年)

松平家康(後の徳川家康)は、前年に起きた三河一向一揆の鎮圧に成功し配下にしていきました。

さらに氏真の東三河の拠点であった吉田城を攻め取り、氏真は三河の支配権を完全に失ってしまいました。

一方で、今川家は、武田氏、北条氏との間で婚姻関係(甲相駿三国同盟)にありました。

そんな中、武田信玄が川中島での上杉謙信との戦い収まるや、織田信長と同盟を締結する(永禄8年(1565年))などの動きに転じます。

また松平家康にも書状を送り今川氏真、追討の算段を持ちかけるなどして、
今川家滅亡の筋書きが、確実に進行していったのです。

武田今川同盟破棄
永禄8年(1565年)

武田信玄の嫡男、武田義信が謀反の嫌疑により幽閉されるという事件が起きます。

これにより完全に武田、今川両者の間の同盟が破棄されることになるのです。

この嫡男、武田義信の妻は今川氏真の妹、嶺松院(れいしょういん)であり

甲相駿三国同盟(1554年)で嫁がれていたのですが、

この事件をきっかけに永禄10年(1567年)の2月嶺松院は駿府に送り返されることになり、婚姻関係も解消されました。

また氏真にとって何よりも大きな痛手となったのは、これまで戦国大名、今川家当主を四代に渡り政治的にも支えてきた祖母であり、

また父、義元の母でもあった寿桂尼(じゅけいに)が、この年の3月に亡くなってしまったことでした。

武田信玄による駿河への侵攻
永禄11年(1568年)12月

武田信玄と徳川家康との間で交わされた密約によって、武田信玄による今川領、駿河への侵攻が始まり、

また徳川家康による今川領、遠江侵攻もほぼ同時に始まりました。

この時の今川方は東から武田信玄、西から徳川家康が攻め込んできた為、
混乱の危機的状況の中、一気に今川の重臣達は離散し、敵方についてしまった者が大勢いました。

この危機の事態に対し今川氏真は、すぐさま1万5千程の兵士を武田軍討伐の為、
駿府から送り込むものの今川軍は、ほどなく敗れてしまい駿府に武田軍が押し寄せます。

この戦いで、逃げ延びるのに今川氏真の妻、早川殿(北条氏康の娘)は、
乗る輿も無い状態で何も持たず、徒歩で駿府を脱出しなくてはならないひどいありさまでした。

駿府、今川館そして臨済寺と、ほぼすべての今川家の駿府の町は焼失しました。

今川氏真も駿府から命からがら、重臣の朝比奈泰勝を頼って掛川城に逃れました。
2千人ほどいた軍勢も、わずか50人の兵士だけになっていたといいます。 

北条氏康の庇護

その掛川城も、ほどなく徳川家康により包囲された為、氏真は降伏。

永禄12年(1569年)5月17日、開城します。

今川氏真は、その後伊豆へ向かい北条氏康の庇護の元、戸倉城にたどり着き北条氏康の後継者である北条氏政の子、

北条氏直を養子として今川家の領土、駿河を譲り渡しました。

今川氏真は妻の実家(北条氏)である小田原に移り住みます。

1571年に義父、北条氏康が亡くなり、
また後継者の氏政が武田信玄の娘を、その妻とした為に、かつての甲相駿三国同盟の婚姻関係、解消の件(1567年)の不都合もあって、この地にいられない状況になりました。

徳川家康の庇護下へ

今川氏真は、こうした経緯で徳川家康の庇護下に身を置くことになっていきました。

その後、今川氏真は信長、家康連合軍が武田勝頼に大勝利した「 長篠の戦い 」に従軍します。

天正3年(1575年)には、徳川軍率いる駿河、諏訪原城(静岡県島田市)攻めに従軍しています。

その後の今川氏真の詳細は、ほとんど知られていませんが、天正18年(1590年)豊臣秀吉が天下統一した頃には出家していたといわれます。

慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いの後、今川氏真は江戸幕府の旗本として徳川秀忠に仕える嫡孫、範英と二男、品川高久(今川宗家以外は品川を名乗ることになります。)と江戸へ移り住みました。

今川氏真は、慶長19年(1614年)、江戸品川の品川高久の屋敷にて享年77で亡くなりました。

 

きょうのまとめ

今川氏真についていかがでしたでしょうか。

イメージしていた人物と少し違ったという方もいるかもしれませんね。

今川氏真とは、

① 今川義元の突然の戦死後、三河、遠江の統治に尽力

② 義父北条氏康の協力にて、信玄、家康に対応

③ 江戸品川の品川高久の屋敷にて死去(享年77)

桶狭間以後、父の今川義元亡き後において今川家の領土争いは熾烈なものでしたが

駿河、遠江の戦国大名として数年間にわたり君臨した今川氏真は、

やはり武将としては父、今川義元ほどは及ばずとも、

それなりのお方だったとお見受けしました。

 

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