今川義元の母、寿桂尼とは?

 

今川家第九代当主

今川義元いまがわよしもと

その母、寿桂尼じゅけいにとは、どのような方だったのでしょうか?

寿桂尼は女戦国大名の異名を持つほどのお方でした。

それでは、寿桂尼がどのようなお方だったのか、生い立ちや、エピソ―ドなどをみていきましょう。

もちろん今川義元も登場!?明智光秀が主役の「麒麟がくる」がはじまりますね。
関連記事 >>>> 「2020年大河ドラマ 「麒麟がくる」とはどんな内容?キャストは?」

「麒麟がくる」各回のあらすじとレビュー記事はこちらをどうぞ。
関連記事 >>>> 「2020年大河ドラマ 「麒麟がくる」」

 

寿桂尼 生誕

今川義元

今川義元
出典:Wikipedia

詳しい資料がなく俗名や、

生年は不明ですが1490年代頃の生誕といわれます。

寿桂尼は、京の公家の藤原北家(藤原道長などを輩出した、藤原家で最も栄えた一族)の流れを汲む

中御門家の出身で、歌人として高名な中御門なかみかど宣胤のぶたねの娘でした。

 

女戦国大名 寿桂尼

今川家を支え続けたその生涯

女戦国大名の異名を持つ寿桂尼は、

今川家第七代当主、今川氏親の正室です。

・第八代、今川氏輝

・第九代、今川義元

・第十代、今川氏真

の四代に渡って今川家を戦乱の世で支え続けた女性でした。

公家の出身である寿桂尼は、

その人脈を用いて今川家が戦国時代に大名として勢力を拡大していくことに尽力した女性でした。

駿河一国の領主にすぎなかった今川氏親でしたが、

寿桂尼のこうした協力のもと戦国大名として勢力を拡大することに成功し、遠江にまで領土を広げていく活躍をしました。

晩年の氏親は病気がちであった為、寿桂尼が氏親の政治を補佐していくようになったといわれます。

氏親が1526年に亡くなった後、今川家第八代当主になったのは、

まだ14歳の嫡男、氏輝であった為、寿桂尼は当初事実上の当主を務めました。

寿桂尼がその生涯で発給した文書は現在わかっているもので25通ですが、そのうちの13通は寿桂尼が、氏輝の後見人となっていた時分のものです。

当時争っていた武田家と和睦したのは、寿桂尼の働きかけがあった為とされています。

また武田信玄と、後に正室になられた三条の方との婚姻の仲介を取り持ったのも寿桂尼と言われます。

今川家家督争い 花倉の乱

嫡男、今川氏輝が原因不明で24歳の若さで亡くなった為、

その後に起きた家督争いが1536年の花倉の乱でした。

この戦いに勝利した寿桂尼の息子、義元が今川家第九代当主になり今川家、重臣出身の僧であった太原雪斎たいげんせっさいが軍師として義元をしっかりと支えていきました。

この頃、寿桂尼が文書を発給する機会は減っていきますが、

全くなくなったのではなく寿桂尼の物事に対しての考え方は、今川家の下す決定にも影響を与えていたようです。

今川義元の時代、今川家は戦国大名として「海道一の弓取り」として名を馳せ、その勢力を拡大していきました。

その勢いに乗り天下に最も近かった武将が、まさに今川義元でした。

桶狭間の戦い 永禄3年(1560年)5月19日

今川義元は三河から尾張へ侵攻しましたが、

織田信長との桶狭間の戦いで敗れ、まさかの戦死をします。

義元の突然の死により今川領土内では混乱が起き、今川家の存続も危ぶまれました。

父、今川義元亡き後、今川家第十代当主となったのは嫡男の今川氏真ですが、

祖母の寿桂尼は、かつて自分の嫡男の氏輝を補佐した時のように孫の氏真を補佐しました。

盛んに文書を発給する一方で、北条氏康と連携を図り、また幕府の力も得ながら、

かつての繁栄を取り戻そうとしましたが、事態は好転せず深刻化していきました。

三河を巡る争い 永禄4年(1561年)

今川領土内での混乱の中、今川家臣の離反の動きがみられ、

中でも松平元康(後の徳川家康)は織田信長との和睦を果たした後、氏真と断交し遂に三河を巡る争いが始まりました。(三州錯乱)

今川家の衰退 永禄8年(1565年)

甲斐の武田信玄は今川義元の死後、織田信長と同盟を締結し、今川氏真氏の討伐を図り始めます。
 
また時を同じくして武田信玄の嫡男、武田義信が謀反の嫌疑により幽閉されたことを、

きっかけに甲相駿三国同盟が破棄されるという事態も起こりました。
 
今川家は今川義元死後の混乱の中で離反が相次ぎ、また領土を奪われて衰退していったのです。

寿桂尼の死去 永禄11年(1568年)3月24日

こうした中、寿桂尼は死去しました。

死しても今川の守護たらん

と、その死後も今川を守ろうとした寿桂尼の願いどうり

彼女の菩提寺は、その遺言により駿府の今川館の東北で、鬼門にあたる龍雲寺とされました。

 

きょうのまとめ

今川義元の死後、今川家はすぐに滅んでしまったのではなく、持ちこたえていました。

武田信玄率いる武田軍が今川領、駿河に侵攻したのは寿桂尼が亡くなった後の、永禄11年の12月のことでした。

このことからも、寿桂尼の女戦国大名としての影響力の大きかったことが推測されます。

寿桂尼は公家の出身でしたが武家社会によく馴染み、また女戦国大名の異名を持つ、

今川家の守護神たるお方でした。

 

今川義元の年表を含む【完全版まとめ】記事はこちらをどうぞ。
関連記事 >>>> 「今川義元とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】」

 

その他の人物はこちら

戦国時代に活躍した歴史上の人物

関連記事 >>>> 「【戦国時代】に活躍したその他の歴史上の人物はこちらをどうぞ。」

時代別 歴史上の人物

関連記事 >>>> 「【時代別】歴史上の人物はこちらをどうぞ。」










合わせて読みたい記事



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

one × 2 =