戦国時代、駿河・遠江・三河という三国を領有し、今川家の最盛期を担った
今川義元。
信長に大逆転された「桶狭間の戦い」や、漫画などで描かれる公家風の姿から、そこまで強いイメージがない人も多いのでは?
しかし史実をしっかり辿ってみると、義元は外交手腕に優れ、隣国との立ち回りのうまさから「海道一の弓取り」の異名をもっていた、紛れもない名将です。
実際のところどんな人物だったのか? どのように大国を築いていったのか?
今回はその生涯を通して、今川義元の人物像に迫っていきます。
もちろん今川義元も登場!?明智光秀が主役の「麒麟がくる」がはじまりますね。
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【キャストビジュアル公開】
今川義元(いまがわ・よしもと)
片岡愛之助#麒麟がくる pic.twitter.com/nFHrvOdg10— 【公式】大河ドラマ「麒麟がくる」初回1月19日(日)放送@NHK (@nhk_kirin) December 26, 2019
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今川義元はどんな人?
- 出身地:駿河国(現在の静岡県静岡市)
- 生年月日:1519年
- 死亡年月日:1560年6月12日(享年41歳)
- 多数の強国を味方に付ける卓越した外交手腕で「海道一の弓取り」と称される武将。駿河・遠江・三河・尾張の一部と広大に領土を広げた
今川義元 年表
西暦(年齢)
1519年(1歳)駿河にて今川氏親の五男として誕生する。幼名は芳菊丸。
1523年(4歳)僧侶になるため、富士郡の善得寺に預けられる。その後京都の建仁寺・妙心寺などにも移り学ぶ。
1536年(17歳)長兄の氏輝・次兄の彦五郎が亡くなる。後継者争いに勝利し、今川家11代当主となる。このとき将軍から義元の名をもらう。
1537年(18歳)武田信虎の娘・定恵院と結婚。武田家と甲駿同盟を結んだ結果北条家との関係が悪化し「河東の乱」へと発展。
1542年(23歳)三河の侵攻を巡って織田信秀と「第一次小豆坂の戦い」を展開。敗走する。
1545年(26歳)上杉憲政と同盟を結び、武田家・上杉家の協力で北条家を攻め、和睦を取り付ける。
1548年(29歳)「第二次小豆坂の戦い」で織田信秀を破る。
1549年(30歳)岡崎城・安祥城を侵攻し、三河を手中に収める。信秀の息子・織田信広を捕らえ、人質交換で松平竹千代(徳川家康)を配下にする。
1553年(34歳)今川仮名目録に追加法を加え、室町幕府の定めた法を完全に廃止。幕府との関係を断つ。
1554年(35歳)北条家の娘・早川殿を息子・氏真の嫁にもらい、武田・北条との甲相駿三国同盟を結ぶ。
1555年(36歳)「第二次川中島の戦い」で武田家と上杉家を仲裁して和睦を結ばせる。
1558年(39歳)家督を氏真に譲って隠居。三河の鎮圧と経営に尽力する。
1560年(41歳)織田領の那古野城を目指し尾張へ侵攻。「桶狭間の戦い」にて織田信長の奇襲により、没する。
今川義元の生涯
1519年、今川義元は大名・今川氏親の五男として、現在の静岡県静岡市にあたる駿河国に生まれました。
今川家は戦によって自分たちで領土を手に入れた戦国大名とは違い、幕府が任命した守護大名。
要するに国から駿河を任された県知事のような存在で、室町幕府を担う足利家についで由緒正しい家系だったのです。
義元におしろいやお歯黒など、公家風の装いをしているイメージがあるのは、このように幕府とのつながりが強かったからでしょう。
僧侶として修業を積んだ幼少時代
五男として生まれた義元はそもそも当主になる予定がなく、4歳のころ、富士郡にある善得寺に預けられ、幼少より僧侶を目指して修行に励みます。
名を幼名の芳菊丸から栴岳承芳に改め、京都の建仁寺や妙心寺などでも暮らしていました。
このとき義元の世話をした太原雪斎は、のちに今川家の家臣となり、義元を生涯支えていくことになります。
ちなみに雪斎は秀才で通っており、このころには義元の父・氏親から何度も今川家に来るよう誘われていたとのこと。
彼に育てられたことも、義元が海道一の弓取りと呼ばれるほどの大名になった要因といえます。
このあと義元が17歳のころ、長兄の氏輝・次兄の彦五郎が相次いで亡くなったことで、義元に今川家当主の座が回ってきます。
このとき異母兄の玄広恵深との家督争いを制したのも雪斎の活躍によるものでした。
太原雪斎…キーパーソンですね。
同盟を駆使した立ち回り
父の氏親や兄の氏輝の代では、今川家は甲斐(山梨)の武田家と対立していましたが、義元が家督を継ぐと、まずこの関係の改善を試みます。
武田信虎の娘・定恵院と政略結婚し、武田家と甲駿同盟を結ぶのです。
しかしそもそも今川家は相模国(神奈川)の北条家と手を組んで武田と争っていたため、今回の同盟に北条家当主の北条氏綱が激怒。
これによって1537~1545年まで、約9年にも渡って両国は小競り合いをすることに…これを「河東の乱」といいます。
河東は読んで字のごとく富士川から東の領土を意味し、怒った北条家が駿河のその領土を占領してしまったのです。
この河東の乱に関しても義元は上杉家が北条家と敵対していることを利用し、上杉と同盟を結ぶことで勝利をたぐりよせています。
周囲と同盟を結んでうまく立ち回っていくことが、義元流の外交だったのですね。
ちなみにこのころ時期を同じくして、三河(愛知県豊川市)の侵攻をめぐって織田家と幾度も争っています。
人質にしようとしていた松平竹千代(のちの徳川家康)を織田家に横取りされたり、
かと思えば小豆坂の戦いでは織田家を下したり…
やったやられたの繰り返しで、両家は確執を深めていったのです。
戦国大名を名乗り、尾張制圧の基盤を固めていく
1549年になると三河侵攻を巡る争いは一気に今川家の優勢となり、この年に義元は岡崎城・そして織田家が領有していた安祥城を侵略し、三河から織田家を追い出してしまいます。
このときに織田信秀の息子・信広を捕らえ、人質交換によって奪われていた竹千代の奪取にも成功。
竹千代は1560年の「桶狭間の戦い」でも大いに活躍しますから、三河を手に入れたと同時にこれも大きな収穫となりました。
さらに領土を拡大して勢いづいた義元は1553年には、幕府が定めていた法を廃止し、自身が守護大名ではなく戦国大名であることを宣言します。
「もう俺は幕府の犬ではない!この一帯は幕府ではなく俺の領土なんだ!」
という感じですね。
また翌年の1554年には北条家の娘・早川殿を嫡男の氏真の嫁に迎え、武田・北条との甲相駿三国同盟を締結。
隣国のほとんどを味方につけ、残す敵は西側、尾張の織田家のみ…
この万全な態勢をもってして、桶狭間の戦いでは2万5000という、全勢力に近い兵を動員することができたのです。
うーん…憂いはなかったはず…。
しかし残念ながら1560年6月12日、桶狭間の戦いにおいて織田信長に2万5000 vs 3000という圧倒的優勢をひっくり返され、義元は無念の死を辿ることになるのです。
きょうのまとめ
海道一の弓取りと名高い今川義元の外交手腕はたしかに理にかなっており、他国の情勢を敏感に察知しながら強国を次々と味方にしていく様は見事です。
「信長にしてやられた武将」というイメージが先行してしまいますが、さすがに大国を築いた人物というだけはあるのですね。
最後に今回のまとめをしておきましょう。
① 強国には同盟で対抗するのが今川義元のやり方
② 桶狭間の戦い以前にも、織田家とは三河の侵攻を巡ってたびたび争っていた
③ 義元は三河を領有し、武田・北条の後ろ盾もある万全な状態で桶狭間の戦いに挑んだ
こう見てみると、義元の政策はほとんどが晩年の尾張侵攻へ向かっているようにも見えてきます。
織田信長の天下統一に向けて、運命は刻々と動いていたというのか…不思議なものですね。
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