細川勝元といえば、応仁の乱の東軍大将です。
一方の山名宗全はこの戦いの敵である西軍の大将だということは、
歴好きの人ならば誰もが知っていることですね。
しかしこの2人協力してことにあたったこともあるのです。
今回は山名宗全という人物像と共に、細川勝元との関係について調べてみました。
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山名宗全とはどんな人物か
山名宗全は細川勝元と同じく、室町時代の武将で守護大名です。
「宗全」という名は彼が出家してから名乗ったもので、それまでは山名持豊といいました。
ここでは分かりにくくなるので、山名宗全で統一してお話ししましょう。
宗全は嫡男ではなかったのですが、
長兄が早世し次兄が家を継ぐと思われたのですが、6代将軍足利義教の怒りを買い廃嫡(嫡流を継ぐ相続権を廃する、または廃されること)となりました。
このため宗全が山名家の家督を継ぐになったのです。
1441年、将軍足利義教と赤松満祐の屋敷を訪ねた時、足利義教は満祐に殺害されます。
山名宗全はその場から脱出し、満祐討伐の兵を挙げました。
これを嘉吉の乱といいます。
満祐軍を鎮圧し宗全は赤松氏の領土を得たのです。
このことから山名宗全はあらかじめ赤松満祐の反乱を予測していたのではないか、若しくはそうなるように仕向けたのではないかと言われています。
これが事実ならば山名宗全、悪い人ですね。
この乱の後、宗全は出家しています。
それでも政治から退いたわけではなく、その後も勢力的に動きました。
細川勝元と山名宗全の仲
細川勝元と山名宗全の仲
出家した山名宗全は、足利義教と共に殺された山名煕貴の娘を細川勝元に嫁がせています。
この時山名宗全と細川勝元は幕政の中心にいました。
1543年山名宗全は8代将軍足利義政と対立し退治されそうになりましたが、細川勝元の取りなしで何とか事は収まりました。
その後もなにかと細川勝元は宗全を助けています。
そんな2人がなぜ戦うようになったのでしょうか。
応仁の乱
足幕府のお家騒動で義政の後を弟の足利義視が継ぐのか、息子の義尚が継ぐのかで争いとなります。
この時足利義視の味方についたのは細川勝元で、足利義尚方についたのが山名宗全でした。
元々幕政の頂点にいた2人は、何かしらのきっかけがあれば相手を蹴落とすことができると考えていたのかもしれませんね。
トップが2人というのは何かと目障りなこともあったでしょうし、
本当のトップに登りつめたいという考えが両人にあったのではないでしょうか。
応仁の乱は11年も続きます。
しかし細川勝元も山名宗全も途中で亡くなっています。
全く仲がいいのか悪いのかよくわからない2人ですね。
2人で始めた戦いを残して逝ってしまうなんて。
きょうのまとめ
はじめは協力的にみえた2人は、実はトップを狙って相手を蹴落とす時期を見計らっていたのでしょうか。
細川勝元も山名宗全も野心的でよく似た性格だったのかもしれません。
同じ考え方の2人は相容れない者同士だったようですね。
今頃、お墓の下でもトップを目指して争っているのではなく、お互いが穏やかに眠りについていることを願います。
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