細川勝元と細川忠興の関係とは?

 

細川勝元は応仁の乱で東軍の大将として活躍した人物です。

室町幕府で20年以上も官僚として務めた有能な人材でした。

この細川勝元は細川忠興とどのような関係になるのでしょうか。

また細川忠興とはどのような人だったのか調べてみましょう。

 

細川官僚家と守護家

細川家は、頼春という家祖からその子頼之が繋いでいった官僚の細川京兆家と、

頼之の弟頼有(よりあり)が繋いだ和泉守護の細川家に分かれています。

細川勝元は官僚家である細川京兆家の流れを継ぐ人でした。

一方、細川忠興は守護家を継ぐ人だったのです。

どちらも室町幕府から仕えた名門の家柄でした。

細川勝元の息子政元の時代に、守護家の細川元有が敵対します。

そして争ったのですが、元有は敗れ、結局政元の家臣になります。

細川忠興はそれから三代後の領主として誕生しています。

つまり、細川勝元と忠興の時代は100年以上もズレがあり、2人の直接的な関わりはなかったのです。

それでも細川京兆家に屈した守護家の子孫だということにはなります。

 

細川忠興とは

戦国の世を生きる

細川忠興は1563年に細川藤孝(幽斎)の長男として生まれます。

彼の妻は明智光秀の娘、細川ガラシャです。

忠興は織田信長の嫡男信忠に仕えていましたが、本能寺の変が起き、義父の明智光秀が謀反を起こします。

この時光秀から味方になるよう頼まれますが、忠興はこれを断り剃髪して信長への忠誠が嘘ではなかったことを訴えました。

秀吉はそれを認め、忠興に対して仕置をするようなことはなかったと言います。

その後は、秀吉に仕え、秀吉の死後は家康に忠臣を尽くします。

しかし関ヶ原の戦いで石田三成の人質にされそうになった妻のガラシャはそれを拒み自ら命を絶ったのです。

最愛の妻の死でした。

家督を忠利へ

1620年、病気のため家督を三男の忠利に譲り出家します。

忠興の父は、細川幽斎といい教養に長けた人でした。

それに習い忠興自身も、和歌や能楽などを好む父と同じ教養人となったのです。

このような文化的な一面がある反面、忠興には残忍な面もありました。

妹の嫁ぎ先の一色義定を暗殺して、一族を皆殺しにしたのです。

その騒ぎの中から救い出された妹は、兄の忠興を恨み、兄に斬りかかったといいます。

その時の傷が鼻に真一文字に残っていたそうです。

 

きょうのまとめ

細川勝元と忠興は、遠い親戚だったんですね。

2人の生まれた年も勝元が1430年、忠興は1563年と130年以上もの差があるのです。

直接な関わりはなかったにしろ、

2人とも家祖である細川頼春の血を受け継いでいることには変わりありません。

勝元は室町幕府を、忠興は戦国時代を駆け抜けた武将だったのです。

 

細川勝元の年表を含む【完全版まとめ】はこちらをどうぞ。
関連記事 >>>> 「細川勝元とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】」

 










合わせて読みたい記事



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

5 × 3 =