細川勝元と応仁の乱

 

細川勝元は室町時代の武将であり、細川京兆家の官僚として幕府に仕えた人物です。

また室町時代に起きた最も大きな争乱である「応仁の乱」に深く関与した人でもありました。

細川勝元はどのようにその乱に関わったのか調べてみましょう。

 

応仁の乱のきっかけ

足利義政と義視

室町幕府8代将軍の足利義政は政治に関心を持ちませんでした。

さっさと隠居をして好きな和歌や絵画などの文化的な事に専念したかったのです。

そのため妻日野富子との間に男子がなかったことから、出家していた弟の義視を還俗させました。

義視はゆくゆくは男子が生まれるかもしれないといいこれを一度は断わりましたが、

「義政は男子が生まれても将軍職は義視に譲る」と約束したのです。

足利義尚の誕生

しかし、この後、日野富子が男子を出産します。

足利義尚です。

母親としては自分の子供に将軍になってほしいと考えるのはおかしくはありませんね。

そこで義視義尚(当時幼かったのでほとんど母親の日野富子)の両者が対立します。

それぞれ後ろ盾に選んだのが、細川勝元山名宗全でした。

義視は細川勝元に、義尚は山名宗全にバックアップを依頼しました。

これが応仁の乱を導いたのですが、実はそれだけではありませんでした。

細川勝元と山名宗全

もともと2人は仲の良い方でした。

しかし互いに守護として領地をたくさん持っていたため、応仁の乱のきっかけが起こる頃はどちらが幕府の実権を握るかで対立し始めていたのです。

これに上乗せして、同じく守護職だった畠山家や斯波家などでもお家騒動が起きました。

争う守護職たちも細川勝元と山名宗全にそれぞれ別れて付く形となりました。

ここで応仁の乱が始まってしまうのです。

1467年でした。

細川勝元は将軍の屋敷である花の御所に本陣を置き、山名宗全はその西側にある自分の屋敷を本陣としました。

このことから細川勝元を東軍、山名宗全を西軍と呼ぶようになります。

 

応仁の乱の経過

東軍の細川勝元は足利義政と義尚を迎えることに成功し、西軍に先行します。

しかし西軍も大内政弘の軍が応援に来ると東軍を大きく攻め立てました。

京の都を焼き尽くすほどの激しい戦いが続きました。

大内政弘の攻撃に足利義視は伊勢へと逃げます。

約1年後に義政に呼び戻されたのですが、義政は義尚派の武将を取り立て、義視派のものを殺害するなどして義視を排除する動きを見せたのです。

後見として頼っていた細川勝元にも出家するように勧められ義視は比叡山へ逃亡しました。

この後なんと西軍が義視をバックアップしてきたのです。

そうです、最初とは後見人が入れ替わってしまっています。

当初、

(東軍)足利義視、細川勝元

(西軍)足利義尚、山名宗全

であったものが、

(東軍)足利義尚、細川勝元

(西軍)足利義視、山名宗全

に入れ替わります。

それでなくてもわかりにくい応仁の乱が余計にわかりにくくなりますね。

この戦いで、細川勝元の加勢に参じたのは讃岐の大名たちでした。

特に、安富氏、香西氏、奈良氏、香川氏は細川四天王と呼ばれていました。

応仁の乱の中で最も激戦となった相国寺の戦いでは、香西氏と安富氏が讃岐の一軍を従えて戦いましたが、安富元綱らが戦死しています。

 

細川勝元と山名宗全の死と乱の終結

1472年細川勝元と山名宗全の間で和議の話し合いが持たれ始めていました。

しかし1473年山名宗全が亡くなり、後を追うように細川勝元もその2ヶ月後に亡くなりました。

その後争乱はやっと終息し始めました。

1477年、11年間も続いた戦いが終わったのです。

 

きょうのまとめ

応仁の乱はいろんな人たちの思惑が入り乱れて起きたとてもわかりにくい争乱です。

京の人たちは焼け出され家をなくし、食べ物さえ手に入らなくて餓死する人も多かったといいます。

細川勝元はそんな争いの中心人物だったのです。

この争いが戦国時代の幕開けとなってしまいます。

新しい世の中を導いたのか、それが良かったのか私たちには判断が難しいところですね。

 

細川勝元の年表を含む【完全版まとめ】はこちらをどうぞ。
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